2015年3月8日日曜日

プージャー (पूजा [pūjā])

プージャーとは、

インドの家庭やお寺で毎日行われている儀式のことです。

このような儀式は、自分とイーシュワラ(全体)との関係を築くのに役立ちます。

人生を通して自分とイーシュワラの関係を築きながら、

「自分という一見小さな存在は、全体という巨大な存在と、

どの観点においても離れた別の存在ではない」

という認識をより明確にしていくのです。



この儀式は、祭壇をイーシュワラを呼び起こす場所と見立て、

清水、花、お香、ハンドベル、チャンティングなどを捧げながら、

心、体、感覚、全て使ってイーシュワラに感謝を表し、

「grace(恩恵)」を授かる一連の行為です。




この宇宙の全てを指して「イーシュワラ」と呼びます。


イーシュワラとは世界の全てなのですから、

実際は何時でも何においても、誰でもイーシュワラと離れることはないのです。

しかし、このイーシュワラを常に認識するためには、

イーシュワラの知識と理解が必要です。

ヴェーダが教える生活様式とは、全ての行動や現象において

「イーシュワラ(宇宙の全て)と自分は一体で、何においても離れていない」

という、イーシュワラと個人との関わりを正しく認識する為にあるのです。


毎日の生活習慣の中でも特にプージャーは、イーシュワラを認識する為に特化した行為です。


家でのプージャー・ルームの祭壇の飾りつけの例


プージャーにもいろいろな種類があります。
毎月私が欠かさず寺院でお願いしているプージャーを紹介します。
お願いするとは、お礼を渡して、サンカルパのときに私の名前と願いを入れてもらうということです。

サンカタハラ・チャトルティ・プージャー


地域によって異なりますが、満月または新月から、月齢4日目の夕方に行われるプージャーです。

障害物を司るデーヴァター「ガネーシャ」にマントラや清水などを捧げて

さまざまな願いを達成しようという、祈りの行為です。


プラドーシャ・プージャー


満月と新月から数えて、それぞれ月齢11日目の夕方に行われるプージャーです。

シヴァ神にアビシェーカ(聖油、清水によるお風呂とその後の飾りつけ)などを捧げて、

グレース(恩恵)を授かろうとする祈りの行為です。



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8.サンカルパ(सङ्कल्पः [saṅkalpaḥ])

サンカルパとは


何かしらの行動を起こす前に、

「私は今から、~を達成させる為に、~をします」と

はっきりと心で決めて自分に宣言することです。

なんだ、それだけか、と思うかもしれませんが、

サンカルパをするかしないかで、大きな違いが生まれるのです。

サンカルパをしているところを、
サーマヴェーディのブランマチャーリーに再現してもらいました。
ガネーシャのテンプルは、子供達が自主的に建てたんですよ。
そんなことを思いついて自分達で行動を起こす子供達!
その純粋な心に、いつも尊敬を覚えます。


祈りにおけるサンカルパ


さまざまな行為の中でも、祈りという行為では、特にサンカルパが重要です。

エーカーダシーをする時、プージャーをする時、シンプルに祈る時、

サンカルパをはっきりさせる習慣をつけましょう。


自由意志を与えられているのが人間ですが、

この世知辛い世の中で生き延びる為に、

「不本意ながらもこうしないと」と選択の余地が与えられないプレッシャーにさらされて、

いつでも自由意志を100&使えるわけではありません。

サヴァイヴァル・モードが高くなれば高くなるほど、

自由意志の自由度は低くなります。

しかし、祈りという行為は、そんなプレッシャーがありません。

祈りという行為において、自由意志の自由度は100%なのです。


祈りのサンカルパ


1.皆の為のサンカルパ

2.より特定的なサンカルパ


2つとも大事です。

特に、自分自身の精神的な成長をサンカルパにして祈ることが一番大事です。

どんな行為でも、「これは自分の成長の為」というサンカルパで行えば、

見た目の結果はプラスであれマイナスであれ、どうであっても、

「自分の成長」は必ずプラスにしかならないからです。


最優先価値が「自分自身の精神的な成長」である時、

家庭や社会の義務への態度が満足から現われるようになり、

失うものは何もなく、デーヴァター達も邪魔できません。

雨が降ろうと槍が降ろうと、私は成長するのですから。




辞書を引いてみた


ハラーユダ・コーシャというサンスクリットToサンスクリット辞書を引いてみると、、、

最初に開いたページに発見!ラッキー!

サンカルパ(सङ्कल्पः [saṅkalpaḥ])とは、、


説明1.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
मानसं कर्म ;「心でする行為」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そう、サンカルパとは、何を隠そう、行為なのです。
だから必ず結果を生むのです。



説明2.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
मनसा सङ्कल्पयति, वाचा अभिलपति, कर्मणा चोपपादयति इति हारीतः ।
「心でサンカルパ(決意)をし、
言葉で話し、
行動で実現する。」
(ハーリータ・ダルマ・スートラ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これは、3種類の行為を反映しています。

この宇宙の現われは、以前のカルマ(行為)の現われです。

サンスクリット語で「人間(マヌッシャ)」の定義は、

「自由意志を使って、心と言葉と身体を使って行為する意識体」のことです。

別に地球人である必要はありません。



説明3.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
सङ्कल्पेन विना राजन् यत्किञ्चित्कुरुते नरः ।
फलं चाल्पाल्पकं तस्य धर्मस्यार्द्धक्षयो भवेत् - इति भविष्यपुराणे ॥

「サンカルパをすること無く行動した場合、
(目に見える)結果はとても少なく、
プンニャ(目に見えない結果)も半分無駄になるだろう。」
(バヴィッシャ・プラーナ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


言葉を発したり、身体を使って行動したりするのも、

まず先に人間の頭で考えて、そのアイディアが言葉や身体を通して物理的に現われるのです。

ゆえに、自由意志を使って意識的に「思考を使う」=サンカルパをする

ということは、人間としてとても大事なのです。

反対に、サンカルパをしないということは、

自由意志を使わずに、脳みその科学的反応だけで機械的に発言・行動しているということです。

人間の特権である自由意志を使いこなせていないので、、、

まぁ、そんな人が殆どというのも事実で、

だから、サンカルパの大切さが教えられているのです。


どんなに思考能力や学歴や高い人ても、

この「サンカルパ」という行為は、意識しないと出来ません。

人間、機械的にでも複雑なことを考えられるものです。

そして、無意識的で幼稚な欲求から、理論を曲げてしまうのです。




サッティヤ・サンカルパとは


その人が考え事が全て実現してしまう人のことを、サッティヤ・サンカルパと呼びます。

18年間、その人の「考え」と「言葉」と「行動」全てを一致させて生きると、

その人はサッティヤ・サンカルパになると言われます。

もちろん、その人の考えは、ヴェーダなどの聖典の文献が教える価値感がベースになっていなければなりません。

そんな人は滅多なことは考えないでしょうし、

ましてや嫉妬やコンプレックス、不満とは無縁でしょう。

嘘もつく必要はないし、行動は全て、皆の幸福の為にされるわけですから、

その人のサンカルパの実現に必要なサポートは、

人間からもデーヴァターからも与えられるでしょう。

そんな人がサッティヤ・サンカルパなのだと思います。



サンカルパ・シャクティ


いままでに見たとおり、人間の目標達成の源は、はっきりとしたサンカルパです。

思ったことを実現させる力を、サンカルパ・シャクティといいます。

祈り以外の行為でも、実生活のさまざまな行動でサンカルパ・シャクティを使うべきです。

言葉や行動を意味のあるものにするのがサンカルパだからです。

コツは出来るだけ短い時間内の行動において、はっきりした目標を立てることです。

「家から駅まで歩く間に、これだけのシュローカを憶える」

「この1時間、集中して、先生の言葉も言いたいことも気持ちも、全部受け止める」

といった感じです。

これがボヤけていると、ぼんやりしたまま、あまり何も達成出来ずに年月が過ぎていくものです。


最近見かける「ドリームノート」や「新月のデクラレーション」とかも、

このサンカルパ・シャクティを、現代人の為に利用しやすくしたものなのでしょうかね。


あと、「今日から絶対怒らない。怒るのを辞めます」というようなサンカルパは

サンカルパ・シャクティを無視しているので、実現しないどころか余計に問題を増やします。

怒りは状況に対する心理的な機械的反応です。怒りを覚えること自体に私達の選択はありません。

コップから手を離せば落下するのと同じ原理です。

「コップが落下しませんように」というサンカルパをしているのと同じくらい愚かな事なのです。

しかし、「怒った時に、当事者と周りの人に対して、

言葉や行動で傷つけることを、どんなに微細なレベルでもしないようにします」

というサンカルパはとても実用的で、周りの人間や動植物に対してはもちろん

自分に対しても非常に有益なサンカルパです。




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2015年3月7日土曜日

7.どのように祈るのか 3つの祈りのタイプ

祈りを表す為の行為にはいろいろな種類があります。


大きく分けて3つありますが、全てはサンカルパが大事です。

祈りをする前、行動をする前、エーカーダシーをする時には、必ずサンカルパをしましょう。


1.自分でする祈り


・ 日々の祈り

  毎日祈る時間と場所を決めて、心を使って祈るという行為。
  祈る時間は朝と夕方の入浴後でなおかつ食前が良いとされています。
  祈る場所は、家に祭壇を設けたり、お寺や神社に毎日通ったりするのもよいですが、
  自分の部屋に清潔で静かな一部分があれば、そこから始めてもよいでしょう。
  

祈りをする時間と場所は決まっていても、
毎日祈っているうちに、生活そのものが祈りとなり、
自分が行う、全ての思考や言葉、行為が、
「プレーヤーフル(祈りのこもった)」ものとなるのですよ。


・ エーカーダシー

  新月から11月齢目の日と、満月から11月齢目の日にする断食です。
  断食は「ウパヴァーサ」と呼ばれ、イーシュワラの近く(ウパ)に、
  心を置く(ヴァーサ)という意味です。そのように過ごしましょう。
  断食といっても、何を摂取するかしないかは地域や個人によって大きく異なります。
  インドでは一般的には、水、フルーツ、断食用の食事(!)は摂取します。
  断食用の食事とは、ジャガイモ、タピオカ、ウオーターチェスナッツ、岩塩などです。
  食事をしないで済んだ時間は、ジャパなどをする為に使います。
  モウナムやガンガー沐浴にも適した日です。
  祈りや勉強に集中できる良い日です。
  翌日の朝食は、ヴィシュヌの祈りを捧げた後に必ず食べます。


2.イシュタ(祈りの儀式)


・ プージャー(祈りの儀式)
  自分で家や職場でも出来ます。
  もちろん、寺院で祈祷を頼むことも出来ます。

・ ホーマ(火の儀式)
  ヴェーダで教えられている儀式の手順に従って執り行われる儀式です。
  小さなものなら個人でも出来ますが、通常は祭司に依頼して執り行ってもらいます。



3.プールタ(慈善行為)


・ サドゥー、ヴェーダを勉強する人、聖地巡礼者などに対する寄贈
  
・ 学校、水飲み場、バス停などに屋根をつけることなど、社会に役立つ寄贈

・ お寺や神社に寄贈したり、新しくお寺や神社を建ててもらう為の寄贈
  


祈りの国インドでは、イシュタ(儀式的な行為)とプールタ(慈善行為)が、
全国で毎日様々な規模で、お金持ちから貧乏な人によってまで、
多くの人々によってなされています。

2014年10月27日月曜日

プージャスワミジが話してくれた、「サルヴェー バヴァントゥ スキナハ」の意味

先日、サットサンガ(インフォーマルなクラス)の時間に、

「Selfish(自分勝手)とSelfless(無私)の違いは何ですか?」

という誰かの質問に、プージャスワミジがやさしく親切に答えてくれました。

さらに、सर्वे भवन्तु सुखिनः (サルヴェー バヴァントゥ スキナハ)という、

毎日の祈りの中で唱えられる、サンスクリット語のマントラと併せて説明してくれたので、

ここで皆さんにシェアしますね。



要約

セルフィッシュ(自分勝手)とか、セルフレス(無私無欲)という言葉は、

ルース(大雑把)な表現ですね。表現は違えども、事実は同じ。

その事実は、「誰だって、自分が幸せになりたい。」 *注1

ブリハダーランニャカ・ウパニシャッドで言われているように、

周りの人を愛している、幸せにしようとしている、というのは、

それによって自分が幸せになりたいだけなんですね。

愛している人の満足が、自分の満足を引き出してくれる。



セルフィッシュ(自分勝手)というのは、

周りの人を犠牲にしてまでも、自分を幸せにしようとすること。


周りの人を思いやる余裕がある時、

その人の「自分」という言葉の意味が、少し大きいんですね。

自分が満足を感じる為に人を愛する - 

「自分が無い」という意味の「セルフレス」は有り得ないんですね。

「自分が無い」のではなく、「自分が大きい」のです。

周りが幸せでないと、自分も幸せになれない -

家族や友達、地域、全人類、全ての植物や動物、、、と広げられます。

それが私達の言う「セルフレス」の意味です。

「自分を大きくする」ということは、「周りを思いやる」に集約されます。



सर्वे भवन्तु सुखिनः ।
sarve bhavantu sukhinaḥ |
サルヴェー バヴァントゥ スキナハ

全てのものが幸せになれますように。

सर्वे सन्तु निरामयाः ।
sarve santu nirāmayāḥ |
サルヴェー サントゥ ニラーマヤーハ

全てのものが病から自由でありますように。

सर्वे भद्राणि पश्यन्तु ।
sarve bhadrāṇi paśyantu |
サルヴェー バッドラーニ パッシャントゥ

全てのものが善いことを見ますように。
その為に、善いことが、皆の為に起きますように。

もしくは、
誰でも良い側面と、改善するべき側面を持っています。
良い側面を見ることが出来ますように。

मा कश्चिद् दुःखभाग् भवेत् ॥
mā kaścid duḥkhabhāg bhavet ||
マー カスチッド ドゥッカバーグ バヴェート

物理的、心理的、あらゆる痛みを、誰も感じる事がありませんように。

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
om̐ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
オーム シャーンティッシャーンティッシャーンティヒ *注2


毎日の祈りの中で、意味を考えながら祈り続けると、

自然と、セルフィッシュ(自分勝手)は消えて行きます。

― * ― * ― * ―


― * ― * ― * ―


私がこの「サルヴェー バヴァントゥ ...」という祈りの意味を知った時、

「’皆が幸せ’なんて、そんなの無理じゃんね」

と正直思いました。そして実際、そんなの無理です。

それでも、毎日祈り続けて分かったのは、

祈りというものは、まず自分を変える為にある、ということです。

自分の思考や行動の基準が、「サルヴェー バヴァントゥ ...」になっていくのです。

それは、この祈りが自然と自分を大きくしてくれていた、という結果です。


「周りが幸せじゃないと、自分が幸せになれない」なんて、

自分一人が幸せになるのも大変なのに、周りまでも幸せにするなんて、

幸せになれる確立を数段に低くしているのでは?

という理屈も考えられますね。


自分を満足させてくれるコンディションが、

自分一人分のコンディション(例えば、「自分だけ座れたら満足」)から、

周りの分のコンディション(例えば、「自分が立ってでも、年配の人や妊婦さんが座れたら満足」)にシフト出来るということは、

自分が大きいということです。

その場合、自分の幸せは、自分自身のコンディションに頼っていません。

言い換えると、自分を不幸せにしているコンディションが少なくなっているのです。

今まで自分が座れなかったら不幸せだったけど、

自分が大きくなれば、座れなくても不幸せにはならない。

自分を窮地に追い込む要素が、どんどん力を失せて行くのです。

状況からの心理的依存が、どんどん無くなっていくのです。



*注1

私がリシケシに来て、プージャスワミジの言葉を聞くようになった最初の頃、

「自分が幸せになりたい、と思うことは全く悪い事ではない」という言葉にショックを受けました。

なぜかというと、それまでは、

「自分の幸せを望む=セルフィッシュ」

だという図式で世界を捉えていたからです。


まず最初に、「私は幸せになりたい」というしっかりとした土台を、

自分の中に持つのはとても重要なことです

その為には、「自分の幸せとはなにか」ということを、

きっちり、クリアーに考え抜く過程が必要です。

「自分の幸せ」について、明確な理解があれば、

全てが整然としてきます。


周りに心理的に依存することなく、

周りの幸せを祈り、周りの幸せの為に行動することが出来て、

さらに、自分を大きくしていけるのです。


ブリハダーランニャカ・ウパニシャッドからの引用:
बृहदारण्यकोपनिषत्
आत्मनस्तु कामाय सर्वं प्रियं भवेत् ।
夫や妻、子供、お金、デーヴァ等、全てを愛しむのは、自分の幸せの為である。


*注2
シャーンティヒの発音は注意してくださいね。

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
om̐ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
オーム シャーンティシャーンティシャーンティヒ

途中の2回は、連音の決まりで、詰まる音になります。

つまり、 śāntiśśāntiśśāntiḥ と発音されるべきです。

シャーンティが3回繰り返されている理由は、以下の通りです。

思い通りの状況を阻止する障害物には3種類:

1.自分に関すること。例えば病気や落ち着かない気持ち。

2.周りに関すること。例えば家族や近所の人、蚊や動物。

3.人間の力の及ばないこと。例えば天災など。

それらの障害物を鎮める為に、3回「シャーンティ(沈静)」と、

宇宙全体の摂理に従って動き続ける水の中に、

「祈り」という行動で、投石するのです。

全てが滞りなく、思い通りに進みますように。




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2014年10月2日木曜日

6.何を祈るか? #1総体的な祈り

何を祈るかには、大きく分けて2種類あるといえます。


#1 総体的な祈り


「皆が幸せに、平和に暮らせますように」というような、

全体の幸せと平和を祈るもの。


#2 特定的な祈り


「○○が××になりますように」といった、人間や条件を特定するもの。




#1 総体的な祈り


「皆が幸せになれますように」と祈ったところで、

全ての人が同時に幸せになるなんて、とても無理な話では?

と思ってしまいますが、そう思いながらでも、毎日祈っているうちに、

この祈りの意味が見えてきます。

全体の調和や平和、幸せを願う姿勢が、自分の考え方に反映されてくるのです。

自分の行動基準が、利己的から調和的へとシフトしていくのです。

「この世界から、少しでも多くの気分の良さを搾取しよう」

という凡人の姿勢から、

「ありがたくも、自分は結構満たされたいるので、

他者の要求を理解して、満たしてあげるだけの余裕があります」

という、大きくて、心に沢山余裕のある人間にシフトしていくのです。


沢山のモノやお金を持っていたり、人間に囲まれていたりする事と、

その人の満足度や精神的余裕との間に、あまり関係が無い事は、

この世の中を見渡せば、お分かりの通りです。


どこか遠くの場所に出向かなくても、周りを見渡せば、

私の時間や、アテンション、優しさ、共感、尊敬を求めている人達は沢山います。

自分に余裕があれば、それを見つけ、与える事は簡単です。

自分からの距離や、無干渉を求めている人間にも、それを与えてあげられます。

与える立場にある時、その人は、状況よりも大きな人間です。


「人の為に、時間や労力、気力、お金を使うなんて、もったいない!」

と考えるのは、せこくて小さな人間です。

「こんなの大した事ない。これで人を満足させてあげられるなら、お安いもんだ」

と考えるのが、大きな人間です。


人間を小さくしているのは、主観や、視野の狭さと浅さです。

逆に、人間を大きくしているのは、客観性と、視野の広さと深さです。


小ささから抜け出す一番の方法は、

自分があたかも、大きな人間であるかのように振舞うことです。

無視して通り過ぎたい場面でも、一息ついて、余裕を見せて、

助けの手を差し出してみるのです。

結果、損をした気分になってしまっても、

これ位の時間や労力、お金のことで、アップダウンするような、

自分はそんな小さな人間ではない!と自分に言い聞かすのです。

大きな人間になる為には、これが唯一の方法です。

「あと10年歳を取れば、年収が今の2倍になれば、

大きな人間として振舞えるようになるだろう」といった考えは大間違いです。

人間は、賢く生きない限り、何歳になっても、年収が億や兆になっても、

泣いている赤ん坊のように、小さな人間のままです。


「皆が幸せに、平和に暮らせますように」という祈りは、

物事を見る目を、広く、深くしてくれます。

さらに、自分の行動を判断する時に、余裕や思いやりを与えてくれるのです。


インドのヴェーダにある祈り


सर्वे भवन्तु सुखिनः । सर्वे सन्तु निरामयाः ।
सर्वे भद्राणि पश्यन्तु । मा कश्चिद् दुःखभाग् भवेत् ॥
sarve bhavantu sukhinaḥ | sarve santu nirāmayāḥ |
sarve bhadrāṇi paśyantu | mā kaścid duḥkhabhāg bhavet ||

全ての人が(sarve)幸せな人に(sukhinaḥ)なりますように(bhavantu)。
全ての人が(sarve)無病息災(nirāmayāḥ)でありますように(santu)。
全ての人が(sarve)良い事を(bhadrāṇi)見ますように(paśyantu)。
誰しも(kaścid)悲しみを味わう人に(duḥkhabhāg)なりませんように(mā bhavet)。


そのうち、音声をYouTubeにUPしますね。


#2の特定的な祈りは、次回と言う事で。。。

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
om̐ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||







<< 5.神様とは? 信じるか信じないかを決める前に、神様の定義をはっきりさせましょう。 <<


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2014年8月30日土曜日

5.神様とは? 信じるか信じないかを決める前に、神様の定義をはっきりさせましょう。

神様はいるのか?


「祈る」という行為を伝える時に、

一番最初の障害物は、「神様なんか信じないから祈れない」です。

「見えるものしか信じない」というのは、現代人としてもっともの考え方です。


いる・いないはどうやって決めるのか


しかし、実際に肉眼を通して見えていない物でも、

(顕微鏡や望遠鏡を通しても、結局は肉眼を通して見ています。)

科学的に証明されているものであれば、現代人はすんなり受け入れています。

例えば、DNAとか、素粒子とか、恒星までの距離とか、ブラックホールとか、、、

これらは、顕微鏡や望遠鏡を通しても、実際に見えないけれども、

セオリー(理論)として、実験を通して証明できるものなので、

見えなくても「ある」ものとして受け入れられています。


神様は信じるものでは無い


では、神様はどうなんでしょうか?

「神様は見えないから、信じるしかない」というのが通説です。

しかし、そうなんでしょうかね?

きっちり考えてみませんか?


「神様は見えない」って言うけれども、

その発言は、まず神様がどんなものが知られている事が前提になっていますね。


神様って、こんな感じで天国にいる!

といった想像が先にあります。


こんな勝手な想像をベースとして、

その像が見える見えないという基準で、

私達は、神の在る無しを決めているのです。


天国って場所はどんなところなのか、

天国も目で見えないし、

有るとも、そして、無いとも、証明出来ません。。。

信じるしか無いのですね。。。



「見えるもの、理論で証明出来るものしか信じられない」という現代人には、

神様なんて、信じるのは無理!ですね。

じゃあ、神様に向かって「祈る」のも無理?

そんなことはありません。なぜでしょうか?


今見えているものの全て、自分の知覚で知り得るもの全て、

そして、理論で知り得るものの全て、

さらに、自分の知覚や頭脳の制約ゆえに知り得ないものも全部、全て、

この宇宙の広がりの中に在るもの全て、

気の遠くなるくらい長い過去の時間にも、現在にも、そして未来の時間にも、

永遠に続く時間の流れの中に在るもの、それら全て、、、

その全てを想像してみてください。

もう、想像を絶しますが、想像を絶するということは認識できます。

この宇宙の「全て」は、肉眼や顕微鏡や望遠鏡では見えないけれども、

理論的に在る物として捉える事が出来ます。

そこに迷信も信仰心も何も必要ありません。

必要なのは、客観的な認識力だけです。

この「全て」という実体、在るもの、私達が見たり経験したり出来るもの、

その「全て」に名前を付けて見ましょう。

インドでは、この「全て」に「イーシュワラ」という名前を付けています。

インドには、「イーシュワラ」の他にも、何千という名前が、

この「全て」という実体に付けられています。

「イーシュワラ」を直訳すると、「(全ての在り方を)支配している者」になります。

意訳すると「神様」です。

私達が実際に、見たり、感じたり、経験したりしているもの全てなので、

それは「在る」と言えます。

ヒンドゥーの神様は、その「在る」ものの総称です。

絶対的に客観的な考えで捉える「神様」とは、

想像したり、まるまる信じたり、信仰の対象では無いのです。

「イーシュワラ」は、信仰ではなく、理解する為の対象です。

祈りに必要なのは、信仰心では無く、客観的に理解出来る頭脳が必要なのです。

祈ることにより、さらに客観性と理解が増すのです。

「イーシュワラ」つまり、この宇宙の全ての在り方の理解には、

客観性のある頭脳が必要なのです。


「この宇宙の在り方、なんて大それた物には興味ないんだけど!

人間関係とか、経済的問題とか、不安とか、不満とか、

このどうしようもない、自分の心の苦痛をどうにかしたいだけなんだけど!」

というのが、普通の個人です。

苦痛だらけの心も、この宇宙の全ての在り方の表れとして、

深く思いやりを持って理解してあげられるとき、

その人は、客観的であり、その人の重荷は軽くなります。


この宇宙の全てを、イーシュワラと呼ぶなら、

私達の経験の一瞬一瞬、全てがイーシュワラなのです。

幸せな時も、不幸な状況も、苦痛を感じている心も、全てがイーシュワラの現われなのです。

物理的、生理学的、心理学的法則などの全ての法則に沿って、

不幸な状況が生じたり、心が幸せや苦痛を感じたりしているのです。

物理的、生理学的、心理学的法則などの全ての法則も、全てはイーシュワラの現れです。

この宇宙に遍在する全ての法則は、「イーシュワラの法則」と呼ぶ事も出来ます。

全ての出来事、全ての経験は、「イーシュワラの法則」沿って、ただただ現れているだけです。

私に起きる全ての出来事や経験は、イーシュワラの法則によって生み出されるのなら、

私の願いが反映されるように、イーシュワラに対して「祈る」ことが出来ます。

「全て」がイーシュワラなのですから、

私の心や言葉や願いは、イーシュワラに包括されているのです。

私の体も心も、苦痛や幸せや、願いも全て、イーシュワラの法則の範囲内なのです。

イーシュワラというなの「全て」に包括されている私の心や言葉や願いが、

聞き届けられるかどうかを心配する必要は無いのです。

「祈り」は行為である事から、必ず結果を生みます。

手を叩けば、音が出るように。





<< 4.なぜ祈るのか-まずは、自分が幸せになりたいと認識する。 <<

           >> 6.何を祈るか? #1総体的な祈り >>


関連記事:8.ईश्वरः [īśvaraḥ] - イーシュワラ

2014年8月10日日曜日

プージャスワミジからのメッセージ

私の恩師であるプージャスワミジは、私に、

ヴェーダーンタの教えを伝統的文献に沿って、

何千時間という時間を掛けて、しっかりと教えてくれました。

また、サンスクリットの知識を深める為の機会を、個人的に沢山アレンジし続けてくれています。

そしてまた、祈りについても、沢山の事を学ばせてくれました。




プージャスワミジが拠点とされているコインバトールのアシュラムでは、

2014年の5月から、39ヶ月のコースが開催されていますが、

現在アシュラムは、夏休みの真っ最中。

生徒は皆、世界中のあちこちに行ってしまって、アシュラムに居残っているのは、

私を含めたほんの数名。

その数名の生徒の為にプージャスワミジが、毎日小さなサットサンガをしてくれています。

ここで言うサットサンガとは、テキストをベースにした正式な授業ではなく、

先生を囲んで、質問をしたり、近況報告をしたり、昔話を聞いたり、歌を歌ったりする時間です。

この機会に!と、毎日質問をするようにしています。


今日私がスワミジにした質問は:

「現在、日本の人達に向けて、祈りを紹介する文章を書いています。

自分自身も、祈りを続けることによって大きく変わりました。

祈りが自分にどう働いたのか、ゆっくり振り返るステップとして、

祈るという、幸せになる為の行為を紹介したいのです。

日本の人達に祈りを紹介するにあたって、アドヴァイスがあれば教えてください。」


スワミジは、祈りという行為をを紹介するにあたってのステップを、

分かり易く教えてくれました。

「私達が欲しいものは何でしょうか?

結局、私達は皆、バガ(権力、富、知識など)が欲しいんだね。

人や状況に関して、コントロールしたい。富や名声、強さ、知識など。

その為には頑張らないといけないよね。

自由意志を使って、欲しいものを手に入れるために自分の行動を選んで、

頑張らないといけないよね。

でも、頑張っても、正しい時に正しい場所に居ないと、欲しいものが手に入らないですね。

しかし、殆どの場合、その時その場所に居ることを逃してしまいますね。

正しい時に正しい場所に居ることと、居ないことの違いは、何から生まれるのでしょうか?

それは何なのか、(日本の人にも)聞いてみなさい。

世界中の誰でも、自分の頑張りの他にある、結果に違いを生む、

その要素の存在を知っています。

それは「グレース」です。

だから、バガを持っている人(バガヴァーン)に働きかけるのです。

グレースが必要なのだから、グレースを得る為の行為が必要です。

それが祈りです。

ここぞという時の為にグレースを貯めておく行為も、

自分の頑張りの行動の中に含めなければなりません。

祈りの形は、チャリティーなどでもいいのです。」


いつも、今目の前にある事を、一番大事にしているスワミジの生き方は、

自分も真似をするようにしています。

質問をしたら、私の顔をじっと見つめて、ゆっくり、優しく、話してくれる。

いつも不思議なのは、あんなにゆっくり話していて、発している言葉の数は少ない筈なのに、

スワミジから得られる知識は、とっても重くて深いこと。

自分も、発している言葉の無駄遣いをしないように、

スワミジを出来るだけ真似て生きて行きたいです。




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