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2015年11月3日火曜日

印刷版『祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば』も発刊しました!

アマゾンで販売開始しました

おかげさまで、アーユルヴェーダのカテゴリーで
ベストセラー1位です。

ヴェーダーンタやサンスクリット語に興味を持った人が

一番始めに習う祈りのシュローカを集めました。


色がこのサイトとマッチしていますね。

ランゴーリ、テンプル、ディーパ(ランプ)の灯りをイメージしました。

*****

私、Medha Michika の著書の売り上げは全て、

アシュラムへの寄付と、教科書の作成・印刷・配布に使われます。

*****

これからも、より多くの人に、祈りについて知ってもらい、

世界中の皆の幸せに貢献出来ますように。

祈りを込めて。



私は日本でも、お祈りをしにお寺や神社、

ご先祖様のお墓を訪れることはありましたが、

毎日の習慣として、そして自己成長の手段として

お祈りを教えてもらったのはインドに来てからでした。

そして、祈りが、私の手をとって正しい方向へ導き、

時間を掛けながら私の人生を変えてくれました。

でも、祈りはインドにいなくても、どこに居ても出来ます。

私がインドに来る前、日本やアメリカで働いていたときに、

祈りについてもっと知るきっかけがあったら、

誰かに教えてもらっていたら、

祈りという、もうひとつの幸せになる手段、自己成長の手段があることを、

知っていたら良かっただろうな、と思います。

そういう思いでこの本を著しました。


最初の理論の部分は、祈りを日本語で紹介することについて、
プージャ・スワミジに相談した際にいただいたアドヴァイスを反映させました。

私がプージャ・スワミジの元で学んだ、ヴェーダの伝統のスピリッツが、
端々にまで浸透している一冊です。

ヴェーダーンタやサンスクリット語に興味を持たれたて来た方が、
まず一番に習うプレーヤー(祈りの句)を、学び易いレイアウトでまとめました。


それぞれのシュローカについて、祈りの目的の紹介、サンスクリット語の単語一語一語に関しての対訳、そして全体の訳、さらに発音のポイントを説明しています。

さらに、「祈りって何?」「誰に祈るの?」「神様を信じる必要はある?」といった、祈りの疑問に関しても、現代人の腑にすっきり落ちるよう、全て理論的に答えています。

幸せの意味、ヨーガの意味、といったコラムも挿入しました。

内容紹介

祈りは、幸せになりたいという望みを表現する行為です。
行為であるがゆえに、必ず結果を生みます。

第一部祈りの理論では、
「祈りとは何か」「誰に祈るのか」といった疑問対して、現代人の腑にすっと落ちる理論的な回答・解説をしています。

第二部サンスクリット語の祈りのシュローカ(詩句)では、
古来インドにおいて口伝で受け継がれてきたサンスクリット語の祈りの詩句を、一語一語ていねいに、伝統に沿って解説しました。

(印刷書籍版ページ数:108ページ)

目次

第一部 
祈りの理論
一、 祈りについて
1) 祈りとは 8
2) 行為とは 14
3) 自由意志とは 16
4) 自由意志が最も自由な行為、祈り 21
5) 祈りは必ず結果を生む 22
6) 祈りによって得られるもの(ベネフィット) 22
7) 祈りについて知ることが、祈りの効果を高める 25
8) 誰に対して祈るのか 25
9) 何を祈るのか 28
10) どうやって祈るか 32
11) 集合的な皆の祈り 36
12) 祈りのある生活 36

二、 サンスクリット語の祈りについて
1) ヴェーダとは 37
2) 祈りに関する知識 37
3) デーヴァターとは 38
4) デーヴァター達の姿かたち 38
5) ナマハ、ナマスカーラ 39
6) サンカルパ 40
7) マントラとは 41
8) シュローカとは 41
9) シュローカの意味 41


本書の発音と表記について 43


第二部 
サンスクリット語の祈りのシュローカ

1. ガネーシャへの祈り 48
2. サラッスヴァティーへの祈り 50
3. 先生への祈り 52
4. 文献の勉強の前にする祈り 54
5. 平和を願う祈り 60
6. 朝起きたときの祈り 68
7. お風呂に入るときの祈り 70
8. 食事の前の祈り 72
9. 一日を通しての祈り 74
10. 就寝前の祈り 78
11. 祈りの最後に唱えるシュローカ 80

付録1: ガネーシャへの祈り 88
付録2: ヨーガ・クラスの始まりの祈り 91
付録3: スーリヤ・ナマスカーラ・マントラ 96

全シュローカ集 99


= コラム目次 =
コラム – 1: 生まれてきた意味 67
コラム – 2: 幸せの意味 84
コラム – 3: ヴェーダが教える幸せの意味 86
コラム – 4: ヨーガの意味 87
コラム – 5: 人助けは自分の成長を助ける 90
コラム – 6: 思いやり、アヒムサー 94
コラム – 7: 祈りの作法と習慣 98


より多くの人の幸福と平和に貢献できますように。
祈りを込めて。

Medha Michika


アマゾンでのMedha Michikaの著書一覧

Medha Michikaの著書

も参照ください。

2015年10月25日日曜日

新刊のお知らせ: 祈りのKindle本を出版しました



私は日本でも、お祈りをしにお寺や神社、

ご先祖様のお墓を訪れることはありましたが、

毎日の習慣として、そして自己成長の手段として

お祈りを教えてもらったのはインドに来てからでした。

そして、祈りが、私の手をとって正しい方向へ導き、

時間を掛けながら私の人生を変えてくれました。

でも、祈りはインドにいなくても、どこに居ても出来ます。

私がインドに来る前、日本やアメリカで働いていたときに、

祈りについてもっと知るきっかけがあったら、

誰かに教えてもらっていたら、

祈りという、もうひとつの幸せになる手段、自己成長の手段があることを、

知っていたら良かっただろうな、と思います。

そういう思いでこの本を著しました。

とても縁起の良いヴィジャヤ・ダシャミー(विजयदशमी [vijayadaśamī])の日に、アマゾンで電子書籍を出版しました。

追記: 紙の書籍版もアマゾンで発売開始しました。

最初の理論の部分は、祈りを日本語で紹介することについて、
プージャ・スワミジに相談した際にいただいたアドヴァイスを反映させました。

私がプージャ・スワミジの元で学んだ、ヴェーダの伝統のスピリッツが、
端々にまで浸透している一冊です。

ヴェーダーンタやサンスクリット語に興味を持たれたて来た方が、
まず一番に習うプレーヤー(祈りの句)を、学び易いレイアウトでまとめました。



 こちらはKidle版です。(iPod, iPad, Androidでも読めます。)

追記: 紙の書籍版もアマゾンで発売開始しました。

それぞれのシュローカについて、祈りの目的の紹介、サンスクリット語の単語一語一語に関しての対訳、そして全体の訳、さらに発音のポイントを説明しています。

さらに、「祈りって何?」「誰に祈るの?」「神様を信じる必要はある?」といった、祈りの疑問に関しても、現代人の腑にすっきり落ちるよう、全て理論的に答えています。

幸せの意味、ヨーガの意味、といったコラムも挿入しました。

内容紹介

祈りは、幸せになりたいという望みを表現する行為です。
行為であるがゆえに、必ず結果を生みます。

第一部祈りの理論では、
「祈りとは何か」「誰に祈るのか」といった疑問対して、現代人の腑にすっと落ちる理論的な回答・解説をしています。

第二部サンスクリット語の祈りのシュローカ(詩句)では、
古来インドにおいて口伝で受け継がれてきたサンスクリット語の祈りの詩句を、一語一語ていねいに、伝統に沿って解説しました。

(印刷書籍版ページ数:108ページ)

目次

第一部 
祈りの理論
一、 祈りについて
1) 祈りとは 8
2) 行為とは 14
3) 自由意志とは 16
4) 自由意志が最も自由な行為、祈り 21
5) 祈りは必ず結果を生む 22
6) 祈りによって得られるもの(ベネフィット) 22
7) 祈りについて知ることが、祈りの効果を高める 25
8) 誰に対して祈るのか 25
9) 何を祈るのか 28
10) どうやって祈るか 32
11) 集合的な皆の祈り 36
12) 祈りのある生活 36

二、 サンスクリット語の祈りについて
1) ヴェーダとは 37
2) 祈りに関する知識 37
3) デーヴァターとは 38
4) デーヴァター達の姿かたち 38
5) ナマハ、ナマスカーラ 39
6) サンカルパ 40
7) マントラとは 41
8) シュローカとは 41
9) シュローカの意味 41


本書の発音と表記について 43


第二部 
サンスクリット語の祈りのシュローカ

1. ガネーシャへの祈り 48
2. サラッスヴァティーへの祈り 50
3. 先生への祈り 52
4. 文献の勉強の前にする祈り 54
5. 平和を願う祈り 60
6. 朝起きたときの祈り 68
7. お風呂に入るときの祈り 70
8. 食事の前の祈り 72
9. 一日を通しての祈り 74
10. 就寝前の祈り 78
11. 祈りの最後に唱えるシュローカ 80

付録1: ガネーシャへの祈り 88
付録2: ヨーガ・クラスの始まりの祈り 91
付録3: スーリヤ・ナマスカーラ・マントラ 96

全シュローカ集 99


= コラム目次 =
コラム – 1: 生まれてきた意味 67
コラム – 2: 幸せの意味 84
コラム – 3: ヴェーダが教える幸せの意味 86
コラム – 4: ヨーガの意味 87
コラム – 5: 人助けは自分の成長を助ける 90
コラム – 6: 思いやり、アヒムサー 94
コラム – 7: 祈りの作法と習慣 98


より多くの人の幸福と平和に貢献できますように。
祈りを込めて。

Medha Michika


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2015年4月20日月曜日

9.嫌いな人の幸せの為に祈ってあげる

蓮の花は、泥沼の中で育ちますが、
つぼみの中は何にも触れられずに、無垢のまま美しく育ちます。
蓮の葉は、完全に水をはじき、泥水に触れらることがありません。


負の連鎖を断ち切る簡単で確実な方法


自分を傷つけた人、

自分に敵意を持っている人、

自分の平和を脅かしそうな人、


でも、共存していかなければならない人、


そんな人がいたら、あれこれ心労する前に、

まず一番に、その人の幸せの為に祈ってあげるのが、

負の連鎖を断ち切り、平和に共存する為の賢い方法です。

正しい機会があれば、その人に自分が祈っている旨を伝えることも良いことです。



自分自身や自分の親しい人、そして一般的に皆の為に祈るのは難しいことではありませんが、

嫌いな人の為に祈るって?

と思う人もいるかもしれませんが、

これは道理に適っていて、平和的共存にとても有効な手段です。



周りの人間や動植物に危害を与えようとする人というものは、

一様に「幸せでない人」です。

だから最初は、その人が幸せになって、そして周りに危害を与えなくなるように、

祈ってあげればよいのです。



悲しみや怒りを感じられる自分を、誇りとする


人間関係の悩みにはきりがありません。

全うで理に適った背景があるなら、

誰かに関して悲しみや怒りを覚えることは悪いことではありません。

悲しむべき事を悲しいと感じられ、怒るべき事に怒りを感じられる、

そんな繊細な感性を持った自分を、誇りに思っても良いくらいです。


誰かの成功や優れた点をみて、嫌な気持ちになっている自分がいたら、

嫉妬してる自分も可愛いけど、自分はもっと大きい存在なんだ、という教えを

もっと深く理解する必要性を見出さなくてはいけません。


自分がいかに大きいか、という知識を知る必要性


大国の大統領でも、大企業のCEOでも、誰だって、その人の世界観は、

「自分 VS 世界」です。

勝ち目は到底無いくらい、「自分」とは小さな存在です。

普通の一般人として生きていたら尚更、「自分」とは、取るに足らない位、

統計に数えられているのかも分からないくらい、小さくて儚い存在です。

意地悪をされたり、裏切られたり、悪口をいわれたり、

良い意見を持ってもらえなかったり、無視されたり、

他者からの反応に多大に左右してしまう、そんな小さくて儚い存在です。


ヴェーダの文献は教えます。

「あなたとは宇宙と違わない存在なのですよ。」

「あなた自身の存在は、その小さな身体や心ではないのですよ。」

「あなたこそが、宇宙に存在を与えている、無限の存在なのですよ」

これらの教えは、信じる為の教えではありません。

理解する為の教えです。

伝統を知っている先生なら、きちんと、論理的に、丁寧に教えてくれるはずです。

伝えるべきことが伝わっている、だからこそ「伝統」なのです。

伝統を重んじないヴェーダーンタや、大学の講義では、

「伝統」の知識は教えられていません。


自分の存在について、知れば知るほど、周りの意見など取るに足らなくなってきます。

無知にまみれた周りの人達が、自分をどう思い、どう扱うかよりも、

自分が自分をどう理解し、自分と周りをどう扱うか、が重要なのです。


祈りの習慣


自分の為、自分の周りの人の為に祈ることはとても簡単です。

知らない人も含めて、皆の為に毎日祈ることも、難しいことではありません。

自分の幸せと皆の幸せを、日常的に祈る習慣があれば、

嫌いな人や敵対する人に祈ることは、皆の幸せへの祈りの延長なので、

難しいことではありません。

嫌なことがあった時、加害者の事をずっと考えてしまって、

長い時間心を乱されることは、健康な人間によくあることです。

心を乱されている時間のかわりに、その人の幸せを祈ることが出来ます。


被害者からウェル・ウィッシャー(その人の幸せを祈る人)への成長


祈っているうちに、その人が嫌なことをしてしまうバックグラウンドに同情し、

自分が加害者から、ウェル・ウィッシャー(幸せを祈る人)という大きな立場へと育ちます。

特に、自分が傷ついたことに関して、どうしても解決しない感情こそ、

傷つけた人に対して、幸せを祈ってあげることが、自分の中の状況の展開を生みます。


まずは、自分自身が「私は幸せになりたい!」ときっちり認識することが一番大切です。

「その為に何がどうなればOKなのか」という点をはっきりさせようとする習慣も必要です。



賢く生きる方法としてのスペース


自分の心を乱す人達からは、

物理的・精神的距離を充分置くのが、賢い生き方です。

そんな人達だって、誰だって、幸せに生きる権利はあります。

この世には広い広いスペースがあるのですから、

彼らには彼らのスペースを与えて、自分には自分のスペースを与えるのです。

他の人の意見や行動が、自分の平和に影響を与えていることを許しているのは

自分に他ならないのですから、何よりも、精神的なスペースをとること、

つまり精神的に自立することを学ぶしかありません。


その人が家族や会社、地域の一員である場合でも、

あからさまでも構わないので、スペースを置くことは出来ます。

問われたら、「自分には距離が必要」と言って分かってもらえる場合もあります。


しかし、常に顔を合わして共存していかないといけない場合は、

毎日その人の為に祈る習慣をつけるのが良いでしょう。

機会があれば、その人の幸せを祈っていることを優しく伝えるのも良いでしょう。


自分の為に祈ってくれている人に対して、悪く思う人はいません。

別に大の仲良しにならなくとも、互いに乱さずに、心地の良い距離を保てば良いのです。

その為にも、相手に対して祈る、という行為はとても有効です。

家内安全、快適な職場作り、そして世界平和も、

まずは相手に対して幸せを祈ることから始まります。

負の連鎖が続きそうな時こそ、「相手の幸せを祈る」ことが状況を打破させるのです。



追記:

感情は意識的に変えたりすることは出来ません。

その上、感情をコントロールしたり追いやったりするのはとても不健康です。

しかし、感情をどう表現するかは、意識して選択することが出来ます。

「相手の幸せを祈る」といった、有効な感情の表現の仕方、

「相手や自分を傷つける思想にふけり、その言動とをる」といった、

余計に状況を悪くして、負の連鎖を起こす感情の表現の仕方、

それぞれをよく知り、意識的に選択し、うまく表現する習慣を身につけるのは、

自分の精神的成長にとても役立ちます。


感情を否定したり、コントロールしようとするのは、

精神的に不健康なので、絶対にお勧めしません。

全ての感情はプラサーダム(授かり物)です。

感情に「ネガティブ」と名づけて自己嫌悪になったり、

「ポジティブ」と名づけて現実と直面出来なくなったりするのは、

最近の無責任なスピリチュアルな教えの結果です。



<< 祈りのステップ 目次へ <<

祈りは誰にでも出来る、願いを表現する行為です。

祈りに関する疑問に答えながら、祈りという行為について、
ステップごとに解説します。



関連記事:プージャスワミジが話してくれた、「サルヴェー バヴァントゥ スキナハ」の意味


アヒムサー(अहिंसा [ahiṃsā])について







サンスクリットの表記文字を勉強するのにも、良い学習教材が無い!
と常日頃思っていたので、自分で作りました。



     ・ ひとつひとつの音について、発音の口の動かし方の説明
     ・ 音の一覧表
     ・ 複合子音の発音と表記
     ・ ヴィサルガの発音
     ・ アヌッスヴァーラの発音
     ・ 用語一覧





   
 祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば

 ヴェーダーンタやサンスクリット語に興味を持たれたて来た方が、
 まず一番に習うプレーヤー(祈りの句)を、学び易いレイアウトで
 まとめました。

 さらに、「祈りって何?」「誰に祈るの?」
「神様を信じる必要はある?」といった、
 祈りの疑問に関しても、現代人の腑にすっきり落ちるよう、
 全て理論的に答えています。



サンスクリット語やヴェーダーンタを、より多くの人に、
わかりやすく説明した本を多数発行しています。

2015年3月30日月曜日

チャンドラーヤナ(चन्द्रायणम् [candrāyaṇam])

タパス(自制行為による祈りの方法)の中でも、

一番強力と言われるのが、「チャンドラーヤナ」と呼ばれる断食方法。


マハーバーラタでも、シャンカラーバーシャでも、

極端な「プラーヤスチッタ(パーパを中和する方法)」として出てきます。

彼らの視点で極端なのだから、現代人の私達が気軽に真似できるものでは無いのでしょうね。


内容はこんな感じです。

満月の日から始める。 食べる量は普段と同じ。

普段の量を15で割った量を把握します。

満月から1日目    15分の14を食べる

満月から2日目    15分の13を食べる

満月から3日目    15分の12を食べる

… このように15分の1ずつ減らしていく

満月から14日目   15分の1を食べる

新月の日       完全断食(水だけ)

新月から1日目    15分の1を食べる

… このように15分の1ずつ増やしていく

満月の日       普通の食事



という内容らしいです。


あくまでも、こういうのが文献にある、という話です。

読者に実行をお勧めしているわけではありませんからね~。私はお勧めしません!

実施したければ、お医者さんに相談して、ちゃんとアドヴァイスに沿ってくださいね。


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2015年3月8日日曜日

ホーマ होमः [homaḥ]

ホーマとは、

ヴェーダの経典のカルマの部分で教えられている、

火を焚いて、その中にギー(精製バター)や穀物などの捧げものを、

特定のマントラを唱えながら捧げるという形の儀式です。


デーヴァターの中で一番足の速い、アグニ(火)・デーヴァターは、

捧げもの配達人です。


ヴェーダの儀式に特化した勉強を修めた祭司達に依頼して、

自分の要望や生まれた星のチャートにそって、儀式とその日程を決めてもらいます。


以下は、一般的に行われているホーマとその概要です。

ガナパティ・ホーマ(障害物を取り除いて目標達成)

ナヴァッグラハ・ホーマ(それぞれの惑星からのブレッシングを得て目標達成)

アーユッシャ・ホーマ(長寿、無病息災)

ムリッティユンジャヤ・ホーマ(健康を祈る)



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プージャー (पूजा [pūjā])

プージャーとは、

インドの家庭やお寺で毎日行われている儀式のことです。

このような儀式は、自分とイーシュワラ(全体)との関係を築くのに役立ちます。

人生を通して自分とイーシュワラの関係を築きながら、

「自分という一見小さな存在は、全体という巨大な存在と、

どの観点においても離れた別の存在ではない」

という認識をより明確にしていくのです。



この儀式は、祭壇をイーシュワラを呼び起こす場所と見立て、

清水、花、お香、ハンドベル、チャンティングなどを捧げながら、

心、体、感覚、全て使ってイーシュワラに感謝を表し、

「grace(恩恵)」を授かる一連の行為です。




この宇宙の全てを指して「イーシュワラ」と呼びます。


イーシュワラとは世界の全てなのですから、

実際は何時でも何においても、誰でもイーシュワラと離れることはないのです。

しかし、このイーシュワラを常に認識するためには、

イーシュワラの知識と理解が必要です。

ヴェーダが教える生活様式とは、全ての行動や現象において

「イーシュワラ(宇宙の全て)と自分は一体で、何においても離れていない」

という、イーシュワラと個人との関わりを正しく認識する為にあるのです。


毎日の生活習慣の中でも特にプージャーは、イーシュワラを認識する為に特化した行為です。


家でのプージャー・ルームの祭壇の飾りつけの例


プージャーにもいろいろな種類があります。
毎月私が欠かさず寺院でお願いしているプージャーを紹介します。
お願いするとは、お礼を渡して、サンカルパのときに私の名前と願いを入れてもらうということです。

サンカタハラ・チャトルティ・プージャー


地域によって異なりますが、満月または新月から、月齢4日目の夕方に行われるプージャーです。

障害物を司るデーヴァター「ガネーシャ」にマントラや清水などを捧げて

さまざまな願いを達成しようという、祈りの行為です。


プラドーシャ・プージャー


満月と新月から数えて、それぞれ月齢11日目の夕方に行われるプージャーです。

シヴァ神にアビシェーカ(聖油、清水によるお風呂とその後の飾りつけ)などを捧げて、

グレース(恩恵)を授かろうとする祈りの行為です。



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8.サンカルパ(सङ्कल्पः [saṅkalpaḥ])

サンカルパとは


何かしらの行動を起こす前に、

「私は今から、~を達成させる為に、~をします」と

はっきりと心で決めて自分に宣言することです。

なんだ、それだけか、と思うかもしれませんが、

サンカルパをするかしないかで、大きな違いが生まれるのです。

サンカルパをしているところを、
サーマヴェーディのブランマチャーリーに再現してもらいました。
ガネーシャのテンプルは、子供達が自主的に建てたんですよ。
そんなことを思いついて自分達で行動を起こす子供達!
その純粋な心に、いつも尊敬を覚えます。


祈りにおけるサンカルパ


さまざまな行為の中でも、祈りという行為では、特にサンカルパが重要です。

エーカーダシーをする時、プージャーをする時、シンプルに祈る時、

サンカルパをはっきりさせる習慣をつけましょう。


自由意志を与えられているのが人間ですが、

この世知辛い世の中で生き延びる為に、

「不本意ながらもこうしないと」と選択の余地が与えられないプレッシャーにさらされて、

いつでも自由意志を100&使えるわけではありません。

サヴァイヴァル・モードが高くなれば高くなるほど、

自由意志の自由度は低くなります。

しかし、祈りという行為は、そんなプレッシャーがありません。

祈りという行為において、自由意志の自由度は100%なのです。


祈りのサンカルパ


1.皆の為のサンカルパ

2.より特定的なサンカルパ


2つとも大事です。

特に、自分自身の精神的な成長をサンカルパにして祈ることが一番大事です。

どんな行為でも、「これは自分の成長の為」というサンカルパで行えば、

見た目の結果はプラスであれマイナスであれ、どうであっても、

「自分の成長」は必ずプラスにしかならないからです。


最優先価値が「自分自身の精神的な成長」である時、

家庭や社会の義務への態度が満足から現われるようになり、

失うものは何もなく、デーヴァター達も邪魔できません。

雨が降ろうと槍が降ろうと、私は成長するのですから。




辞書を引いてみた


ハラーユダ・コーシャというサンスクリットToサンスクリット辞書を引いてみると、、、

最初に開いたページに発見!ラッキー!

サンカルパ(सङ्कल्पः [saṅkalpaḥ])とは、、


説明1.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
मानसं कर्म ;「心でする行為」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そう、サンカルパとは、何を隠そう、行為なのです。
だから必ず結果を生むのです。



説明2.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
मनसा सङ्कल्पयति, वाचा अभिलपति, कर्मणा चोपपादयति इति हारीतः ।
「心でサンカルパ(決意)をし、
言葉で話し、
行動で実現する。」
(ハーリータ・ダルマ・スートラ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これは、3種類の行為を反映しています。

この宇宙の現われは、以前のカルマ(行為)の現われです。

サンスクリット語で「人間(マヌッシャ)」の定義は、

「自由意志を使って、心と言葉と身体を使って行為する意識体」のことです。

別に地球人である必要はありません。



説明3.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
सङ्कल्पेन विना राजन् यत्किञ्चित्कुरुते नरः ।
फलं चाल्पाल्पकं तस्य धर्मस्यार्द्धक्षयो भवेत् - इति भविष्यपुराणे ॥

「サンカルパをすること無く行動した場合、
(目に見える)結果はとても少なく、
プンニャ(目に見えない結果)も半分無駄になるだろう。」
(バヴィッシャ・プラーナ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


言葉を発したり、身体を使って行動したりするのも、

まず先に人間の頭で考えて、そのアイディアが言葉や身体を通して物理的に現われるのです。

ゆえに、自由意志を使って意識的に「思考を使う」=サンカルパをする

ということは、人間としてとても大事なのです。

反対に、サンカルパをしないということは、

自由意志を使わずに、脳みその科学的反応だけで機械的に発言・行動しているということです。

人間の特権である自由意志を使いこなせていないので、、、

まぁ、そんな人が殆どというのも事実で、

だから、サンカルパの大切さが教えられているのです。


どんなに思考能力や学歴や高い人ても、

この「サンカルパ」という行為は、意識しないと出来ません。

人間、機械的にでも複雑なことを考えられるものです。

そして、無意識的で幼稚な欲求から、理論を曲げてしまうのです。




サッティヤ・サンカルパとは


その人が考え事が全て実現してしまう人のことを、サッティヤ・サンカルパと呼びます。

18年間、その人の「考え」と「言葉」と「行動」全てを一致させて生きると、

その人はサッティヤ・サンカルパになると言われます。

もちろん、その人の考えは、ヴェーダなどの聖典の文献が教える価値感がベースになっていなければなりません。

そんな人は滅多なことは考えないでしょうし、

ましてや嫉妬やコンプレックス、不満とは無縁でしょう。

嘘もつく必要はないし、行動は全て、皆の幸福の為にされるわけですから、

その人のサンカルパの実現に必要なサポートは、

人間からもデーヴァターからも与えられるでしょう。

そんな人がサッティヤ・サンカルパなのだと思います。



サンカルパ・シャクティ


いままでに見たとおり、人間の目標達成の源は、はっきりとしたサンカルパです。

思ったことを実現させる力を、サンカルパ・シャクティといいます。

祈り以外の行為でも、実生活のさまざまな行動でサンカルパ・シャクティを使うべきです。

言葉や行動を意味のあるものにするのがサンカルパだからです。

コツは出来るだけ短い時間内の行動において、はっきりした目標を立てることです。

「家から駅まで歩く間に、これだけのシュローカを憶える」

「この1時間、集中して、先生の言葉も言いたいことも気持ちも、全部受け止める」

といった感じです。

これがボヤけていると、ぼんやりしたまま、あまり何も達成出来ずに年月が過ぎていくものです。


最近見かける「ドリームノート」や「新月のデクラレーション」とかも、

このサンカルパ・シャクティを、現代人の為に利用しやすくしたものなのでしょうかね。


あと、「今日から絶対怒らない。怒るのを辞めます」というようなサンカルパは

サンカルパ・シャクティを無視しているので、実現しないどころか余計に問題を増やします。

怒りは状況に対する心理的な機械的反応です。怒りを覚えること自体に私達の選択はありません。

コップから手を離せば落下するのと同じ原理です。

「コップが落下しませんように」というサンカルパをしているのと同じくらい愚かな事なのです。

しかし、「怒った時に、当事者と周りの人に対して、

言葉や行動で傷つけることを、どんなに微細なレベルでもしないようにします」

というサンカルパはとても実用的で、周りの人間や動植物に対してはもちろん

自分に対しても非常に有益なサンカルパです。




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2015年3月7日土曜日

7.どのように祈るのか 3つの祈りのタイプ

祈りを表す為の行為にはいろいろな種類があります。


大きく分けて3つありますが、全てはサンカルパが大事です。

祈りをする前、行動をする前、エーカーダシーをする時には、必ずサンカルパをしましょう。


1.自分でする祈り


・ 日々の祈り

  毎日祈る時間と場所を決めて、心を使って祈るという行為。
  祈る時間は朝と夕方の入浴後でなおかつ食前が良いとされています。
  祈る場所は、家に祭壇を設けたり、お寺や神社に毎日通ったりするのもよいですが、
  自分の部屋に清潔で静かな一部分があれば、そこから始めてもよいでしょう。
  

祈りをする時間と場所は決まっていても、
毎日祈っているうちに、生活そのものが祈りとなり、
自分が行う、全ての思考や言葉、行為が、
「プレーヤーフル(祈りのこもった)」ものとなるのですよ。


・ エーカーダシー

  新月から11月齢目の日と、満月から11月齢目の日にする断食です。
  断食は「ウパヴァーサ」と呼ばれ、イーシュワラの近く(ウパ)に、
  心を置く(ヴァーサ)という意味です。そのように過ごしましょう。
  断食といっても、何を摂取するかしないかは地域や個人によって大きく異なります。
  インドでは一般的には、水、フルーツ、断食用の食事(!)は摂取します。
  断食用の食事とは、ジャガイモ、タピオカ、ウオーターチェスナッツ、岩塩などです。
  食事をしないで済んだ時間は、ジャパなどをする為に使います。
  モウナムやガンガー沐浴にも適した日です。
  祈りや勉強に集中できる良い日です。
  翌日の朝食は、ヴィシュヌの祈りを捧げた後に必ず食べます。


2.イシュタ(祈りの儀式)


・ プージャー(祈りの儀式)
  自分で家や職場でも出来ます。
  もちろん、寺院で祈祷を頼むことも出来ます。

・ ホーマ(火の儀式)
  ヴェーダで教えられている儀式の手順に従って執り行われる儀式です。
  小さなものなら個人でも出来ますが、通常は祭司に依頼して執り行ってもらいます。



3.プールタ(慈善行為)


・ サドゥー、ヴェーダを勉強する人、聖地巡礼者などに対する寄贈
  
・ 学校、水飲み場、バス停などに屋根をつけることなど、社会に役立つ寄贈

・ お寺や神社に寄贈したり、新しくお寺や神社を建ててもらう為の寄贈
  


祈りの国インドでは、イシュタ(儀式的な行為)とプールタ(慈善行為)が、
全国で毎日様々な規模で、お金持ちから貧乏な人によってまで、
多くの人々によってなされています。

2014年10月2日木曜日

6.何を祈るか? #1総体的な祈り

何を祈るかには、大きく分けて2種類あるといえます。


#1 総体的な祈り


「皆が幸せに、平和に暮らせますように」というような、

全体の幸せと平和を祈るもの。


#2 特定的な祈り


「○○が××になりますように」といった、人間や条件を特定するもの。




#1 総体的な祈り


「皆が幸せになれますように」と祈ったところで、

全ての人が同時に幸せになるなんて、とても無理な話では?

と思ってしまいますが、そう思いながらでも、毎日祈っているうちに、

この祈りの意味が見えてきます。

全体の調和や平和、幸せを願う姿勢が、自分の考え方に反映されてくるのです。

自分の行動基準が、利己的から調和的へとシフトしていくのです。

「この世界から、少しでも多くの気分の良さを搾取しよう」

という凡人の姿勢から、

「ありがたくも、自分は結構満たされたいるので、

他者の要求を理解して、満たしてあげるだけの余裕があります」

という、大きくて、心に沢山余裕のある人間にシフトしていくのです。


沢山のモノやお金を持っていたり、人間に囲まれていたりする事と、

その人の満足度や精神的余裕との間に、あまり関係が無い事は、

この世の中を見渡せば、お分かりの通りです。


どこか遠くの場所に出向かなくても、周りを見渡せば、

私の時間や、アテンション、優しさ、共感、尊敬を求めている人達は沢山います。

自分に余裕があれば、それを見つけ、与える事は簡単です。

自分からの距離や、無干渉を求めている人間にも、それを与えてあげられます。

与える立場にある時、その人は、状況よりも大きな人間です。


「人の為に、時間や労力、気力、お金を使うなんて、もったいない!」

と考えるのは、せこくて小さな人間です。

「こんなの大した事ない。これで人を満足させてあげられるなら、お安いもんだ」

と考えるのが、大きな人間です。


人間を小さくしているのは、主観や、視野の狭さと浅さです。

逆に、人間を大きくしているのは、客観性と、視野の広さと深さです。


小ささから抜け出す一番の方法は、

自分があたかも、大きな人間であるかのように振舞うことです。

無視して通り過ぎたい場面でも、一息ついて、余裕を見せて、

助けの手を差し出してみるのです。

結果、損をした気分になってしまっても、

これ位の時間や労力、お金のことで、アップダウンするような、

自分はそんな小さな人間ではない!と自分に言い聞かすのです。

大きな人間になる為には、これが唯一の方法です。

「あと10年歳を取れば、年収が今の2倍になれば、

大きな人間として振舞えるようになるだろう」といった考えは大間違いです。

人間は、賢く生きない限り、何歳になっても、年収が億や兆になっても、

泣いている赤ん坊のように、小さな人間のままです。


「皆が幸せに、平和に暮らせますように」という祈りは、

物事を見る目を、広く、深くしてくれます。

さらに、自分の行動を判断する時に、余裕や思いやりを与えてくれるのです。


インドのヴェーダにある祈り


सर्वे भवन्तु सुखिनः । सर्वे सन्तु निरामयाः ।
सर्वे भद्राणि पश्यन्तु । मा कश्चिद् दुःखभाग् भवेत् ॥
sarve bhavantu sukhinaḥ | sarve santu nirāmayāḥ |
sarve bhadrāṇi paśyantu | mā kaścid duḥkhabhāg bhavet ||

全ての人が(sarve)幸せな人に(sukhinaḥ)なりますように(bhavantu)。
全ての人が(sarve)無病息災(nirāmayāḥ)でありますように(santu)。
全ての人が(sarve)良い事を(bhadrāṇi)見ますように(paśyantu)。
誰しも(kaścid)悲しみを味わう人に(duḥkhabhāg)なりませんように(mā bhavet)。


そのうち、音声をYouTubeにUPしますね。


#2の特定的な祈りは、次回と言う事で。。。

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
om̐ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||







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2014年8月30日土曜日

5.神様とは? 信じるか信じないかを決める前に、神様の定義をはっきりさせましょう。

神様はいるのか?


「祈る」という行為を伝える時に、

一番最初の障害物は、「神様なんか信じないから祈れない」です。

「見えるものしか信じない」というのは、現代人としてもっともの考え方です。


いる・いないはどうやって決めるのか


しかし、実際に肉眼を通して見えていない物でも、

(顕微鏡や望遠鏡を通しても、結局は肉眼を通して見ています。)

科学的に証明されているものであれば、現代人はすんなり受け入れています。

例えば、DNAとか、素粒子とか、恒星までの距離とか、ブラックホールとか、、、

これらは、顕微鏡や望遠鏡を通しても、実際に見えないけれども、

セオリー(理論)として、実験を通して証明できるものなので、

見えなくても「ある」ものとして受け入れられています。


神様は信じるものでは無い


では、神様はどうなんでしょうか?

「神様は見えないから、信じるしかない」というのが通説です。

しかし、そうなんでしょうかね?

きっちり考えてみませんか?


「神様は見えない」って言うけれども、

その発言は、まず神様がどんなものが知られている事が前提になっていますね。


神様って、こんな感じで天国にいる!

といった想像が先にあります。


こんな勝手な想像をベースとして、

その像が見える見えないという基準で、

私達は、神の在る無しを決めているのです。


天国って場所はどんなところなのか、

天国も目で見えないし、

有るとも、そして、無いとも、証明出来ません。。。

信じるしか無いのですね。。。



「見えるもの、理論で証明出来るものしか信じられない」という現代人には、

神様なんて、信じるのは無理!ですね。

じゃあ、神様に向かって「祈る」のも無理?

そんなことはありません。なぜでしょうか?


今見えているものの全て、自分の知覚で知り得るもの全て、

そして、理論で知り得るものの全て、

さらに、自分の知覚や頭脳の制約ゆえに知り得ないものも全部、全て、

この宇宙の広がりの中に在るもの全て、

気の遠くなるくらい長い過去の時間にも、現在にも、そして未来の時間にも、

永遠に続く時間の流れの中に在るもの、それら全て、、、

その全てを想像してみてください。

もう、想像を絶しますが、想像を絶するということは認識できます。

この宇宙の「全て」は、肉眼や顕微鏡や望遠鏡では見えないけれども、

理論的に在る物として捉える事が出来ます。

そこに迷信も信仰心も何も必要ありません。

必要なのは、客観的な認識力だけです。

この「全て」という実体、在るもの、私達が見たり経験したり出来るもの、

その「全て」に名前を付けて見ましょう。

インドでは、この「全て」に「イーシュワラ」という名前を付けています。

インドには、「イーシュワラ」の他にも、何千という名前が、

この「全て」という実体に付けられています。

「イーシュワラ」を直訳すると、「(全ての在り方を)支配している者」になります。

意訳すると「神様」です。

私達が実際に、見たり、感じたり、経験したりしているもの全てなので、

それは「在る」と言えます。

ヒンドゥーの神様は、その「在る」ものの総称です。

絶対的に客観的な考えで捉える「神様」とは、

想像したり、まるまる信じたり、信仰の対象では無いのです。

「イーシュワラ」は、信仰ではなく、理解する為の対象です。

祈りに必要なのは、信仰心では無く、客観的に理解出来る頭脳が必要なのです。

祈ることにより、さらに客観性と理解が増すのです。

「イーシュワラ」つまり、この宇宙の全ての在り方の理解には、

客観性のある頭脳が必要なのです。


「この宇宙の在り方、なんて大それた物には興味ないんだけど!

人間関係とか、経済的問題とか、不安とか、不満とか、

このどうしようもない、自分の心の苦痛をどうにかしたいだけなんだけど!」

というのが、普通の個人です。

苦痛だらけの心も、この宇宙の全ての在り方の表れとして、

深く思いやりを持って理解してあげられるとき、

その人は、客観的であり、その人の重荷は軽くなります。


この宇宙の全てを、イーシュワラと呼ぶなら、

私達の経験の一瞬一瞬、全てがイーシュワラなのです。

幸せな時も、不幸な状況も、苦痛を感じている心も、全てがイーシュワラの現われなのです。

物理的、生理学的、心理学的法則などの全ての法則に沿って、

不幸な状況が生じたり、心が幸せや苦痛を感じたりしているのです。

物理的、生理学的、心理学的法則などの全ての法則も、全てはイーシュワラの現れです。

この宇宙に遍在する全ての法則は、「イーシュワラの法則」と呼ぶ事も出来ます。

全ての出来事、全ての経験は、「イーシュワラの法則」沿って、ただただ現れているだけです。

私に起きる全ての出来事や経験は、イーシュワラの法則によって生み出されるのなら、

私の願いが反映されるように、イーシュワラに対して「祈る」ことが出来ます。

「全て」がイーシュワラなのですから、

私の心や言葉や願いは、イーシュワラに包括されているのです。

私の体も心も、苦痛や幸せや、願いも全て、イーシュワラの法則の範囲内なのです。

イーシュワラというなの「全て」に包括されている私の心や言葉や願いが、

聞き届けられるかどうかを心配する必要は無いのです。

「祈り」は行為である事から、必ず結果を生みます。

手を叩けば、音が出るように。





<< 4.なぜ祈るのか-まずは、自分が幸せになりたいと認識する。 <<

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関連記事:8.ईश्वरः [īśvaraḥ] - イーシュワラ

2014年6月19日木曜日

4.なぜ祈るのか - まずは、自分が幸せになりたいと認識する。

自分の幸せを願うことは、後ろめたい事ではない


私達は皆誰でも、幸せでいたいと常に願っています。



ここで大事なことは、「自分が幸せになりたい」と願う事は、良い事だということです。

自分勝手なことではありません。

もし、そう感じるなら、それは、

「自分の幸せは、周りの人間の負担に頼っている」

「自分の幸せは、動植物や環境を傷つける事につながる」

という考えているからかも知れません。

こっちがプラスなら、あっちがマイナス。あっちがプラスなら、こっちがマイナス。

というのが資本主義社会的な考えです。


幸せとは?


しかし、「自分の幸せ」についてよくよく考えてみると、

自分の周りの人が幸せであってこそ、私も幸せでいられるのです。

動植物が安心して生き続け、環境が機能しているからこそ、私も幸せでいられるのです。

自分の幸せには、周りの幸せが大きく関わっているのです。

これは、単なる綺麗事で言っているのではありません。

事実としてしっかり認識されるべきです。


自分の幸せとは身勝手なことなのか?


極端な例ですが、世界全体が飢餓に苦しんでいる時に、

飢え死にしそうな人間や動物達に囲まれながら、

「自分のところだけに食糧がいっぱいあって幸せ」なんて言える人はいません。

自分自身が飢え死にする不安から、周りの人と食糧を分けあう事が出来無い人でも、

「周りの人にも食糧があればいいのに」と願うはずです。

「自分が傷ついたり苦しんだりするのは嫌だ」という知識はどんな生き物でも持っています。

しかし、「他の生き物も、自分と同じように、傷ついたり苦しんだりするのを嫌がる」

という知識もしっかり持っているのが人間です。

だから、他者の痛みが見えてしまって、自分も心地悪くなるのです。

しかし、他者の痛みに対して無関心でいられる人もいます。

それは、その人が生きていくのに精一杯で、

周りに思いやりを持てる余裕の無さを表しているのです。

いくら物質的に恵まれていても、自分が恵まれている、満たされている、と認識出来るまでは、

どんな王様でも億万長者でも、生存に必死な幼子と同じ心理で生きているのです。


自分の幸せの為には、自分の幸せを願うべき


他者が幸せなのを見て、嫉妬に苛まされたり、

「自分はあんな風に幸せになれない」と落ち込んだりしてしまう。

また、他者の不幸を、不幸せな自分の慰めとして捉える心理も人間にはあります。

それらは全て、自分が幸せに満たされていない証拠です。

そのような場合に願うべきは、「自分が幸せ」であって、「他人の不幸」ではありません。

いくら他人が不幸になっても、それで気分がましになるような不幸な自分は、不幸なままです。

「自分が幸せになりたいのだ」と、しっかり認識し、願う必要があります。

自分の幸せの為には、自分の幸せを願うべきです。

自分の幸せの為に、他人の不幸を願うのはお門違いです。それは自分の幸せに貢献しません。


自分は幸せになりたいのだとしっかり認める


まずは「自分が幸せになりたい」という事実をしっかり認めたら、

自分の幸せは、周りの幸せから独立したものではない、という事実もおのずと見えてきます。

だから、全ての人間や動植物の平和の為に、心の底からすんなりと祈ることが出来るのです。


「私は息子の幸せの為に、自分を犠牲にしている。自分の幸せなんてどうでもいい」

という人がいます。

しかしそれは、息子の幸せを、幸せに思う自分があってのことです。

結局は自分が幸せになりたいから、息子の幸せを願っているのです。

人の幸せを自分の幸せと感じられる事は、素晴らしい事です。

それは、人間としての心の大きさを表しています。

そんな大きな心を持った自分にお祝いをしてあげながら、息子の幸せを祈る事が出来た時、

その人の息子に対する愛情は、

束縛、見返りの期待、それが裏切られた時の怒り悲しみ等から、少しずつ解放されます。


他への祈りが、自分の幸せを成長させる


他者の幸せを祈る事は、自分の心の大きさを広げてくれます。

世界との関わりあい方のモデルが「自分 VS(対) 周りの環境」である時、

常に周囲を操作し、戦い続け、心の平穏はなかなか見つかりません。


他者の幸せを祈るという行為は、自分の心を大きくしてくれます。

幸せを願える相手が、息子だけでなく、親戚、より広がって、地域、社会、

そして、生き物全体の幸せを祈る事の出来る人は、心の大きい人です。


幸せの成長とは


心が大きくなるとは、どのような事でしょうか。

心が大きくなると、何か自分にいいことがあるのでしょうか。

心が大きくなればなるほど、小さなことに煩わされなくなります。

小さなことに煩わされない、とはつまり、より平穏な心であり、それを幸せと呼ぶのです。


昔は、みんながもらえている風船がもらえなかった事が大事件でした。

今は、風船を作るおじさんが来ても、子供の群れに飛び込んで手を伸ばしたりしません。

もし風船が自分のところに来たら、まわりの子供にあげるでしょう。

それは、風船よりも大きな自分に成長した証拠です。

風船よりは大きくなったけど、他のものではどうでしょうか。


自分を苦しめるもの、がっかりさせるもの、怖がらせるもの、不安にさせるもの、

それらよりも、自分は大きいんだという事実に気づかせてくれるのが、

全ての人や生き物の幸せを祈る行為です。


皆の為に祈るという実用性


「人類全て」にはもちろん、自分が含まれています。

全ての人と生き物の幸せを祈る時、自分の体と心を含めるのを忘れてはなりません。

そのような祈りが、周りの幸せと自分の幸せがコンフリクト(衝突)しない心のあり方を

作ってくれるからです。


本人が気づいているかどうかに関わらず、

周りとのコンフリクトを起こす、つまり周囲に痛みを与える行動をしている人は、

常に不安で、心に平穏がありません。

なぜかと言うと、そのような行動を選択していると言う事は、

その人の心の小ささ、未熟さを表しているからです。

小さくて未熟な心は、不安と不信、不満でいっぱいです。


環境と調和して、自分の体や心も含めた全てのものに対して、

与える痛みを最小限にする努力をし、与える幸せを最大にしようとしている人の心は、

大きく、小さなことでアップ&ダウンせず、平穏です。

幸福感や満たされた感覚とは、平穏な心の中にのみ宿るのです。


祈りが自分に与える影響


祈るという行為は、その人の行動基準に影響を与えます。

行動に選択がある場合、周りとのコンフリクトがより少ない行動を選ぶようになるでしょう。

全ての幸せを祈り続けている人は、自分の選択が、

選択範囲内でベストであったと、はっきり認識できます。

それゆえに、自分の選択に対して、心の平穏があります。

また、後の結果を、グレースフル(優雅)に受け入れる準備も出来ます。


サルヴェー バヴァントゥ、、

全ての人や動植物の幸せを祈る為の、サンスクリット語のプレーヤー(祈り)があります。

「全ての人が幸せになりますように。

全ての人が病気になりませんように。

全ての人が良い物を見ますように。

いかなる人も、苦しみを持ちませんように。」


祈った後に、本当に祈りが効いたか、周りを見渡して、やっぱり状況は変わってない、

とがっかりする必要はありません。

まず、自分の心のあり方が変わるのです。

よりコンフリクトのない、より大きく、より平穏で、より幸せな心を持たせてくれます。

そんな、満たされて余裕のある心は、より客観的な考えを育ててくれます。

また、周りの幸せに貢献出来る行動を生み出してくれます。


祈りは必ず結果を生む


さらに、祈りというものは、結果を生む行為です。

どんなに微小でも、祈りという行為の結果は、何時かしら結果を必ず生むのです。

手を叩けば音が鳴るように。





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2014年6月12日木曜日

3.「祈り」に必要な客観性 ― 目的達成の為の2つの要因




どんな目的でも、それを達成しようとする時において、

目的達成には2つの要因が関わっていることを認識する必要があります。


1.自分が直接コントロール出来る範囲の要因


2.自分が直接コントロール出来無い範囲の要因



至極当たり前のように見える分類ですが、

私達は往々にして、この2つの要因において混乱しています。


自分で出来る事と出来無いことの分別がついていない。

ゆえに ― 

自分でするべき努力が出来ていないので、状況が良くならない。

人に助けを求めるべき状況なのに、助けを求められずに、苦悩を続ける。

物事は何でも、自分のやり方で、自分の思う通りに動くべきだという、

非客観的な考えに捕らわれながら、働きすぎて行動や心のバランスを崩す。

自分が全てをやり遂げたのだと信じて、思い上がる。 ― 


この2つの要因においての混乱は、客観性の欠落の表れです。

物事の達成には、様々な要因が複雑に絡み合っていて、

自分が全てをコントロール出来る訳ではない、

という事実は、客観的に認識されるべきです。


現代の日本では、デキる人間によって作られたシステムの中で、

私達の生活が機能しているので、物事の達成の要因は全て、

人間に拠るものだと感じてしまいがちです。


「○○さんに確認を取って、明日までにメールでお返事します」

という簡単な作業があったとしましょう。


それがもし出来なかった場合、いわゆる先進国、例えば日本だったら

その責任は、○○さんか私本人がどちらかにあるはず、

という様に、思考の範囲は人間たち世界の範囲内に留まっています。

そこに「不確定要因」とか「運」とか「グレース」と言った概念は見つけにくくなっています。


しかし、インドだったら。。。

○○さんどこ?ホリデー?またホリデー?今度は何のホリデー?

いつ帰ってくるか見当つきませんよね。電話してみようか。

つながらないね。きっと携帯のバランス(残高)が無いんだろうね。

じゃあ、待ってもらうようにメールしようか。ってネットつながらないし。

近所で誰かが穴掘って、電話回線つぶしたらしい。いつ復旧するのかね。

ちなみにこの前は、象が電信柱折って電話使えなくなったね。

水道もたまに同じ理由で止まるよね。

あ、復旧した?そしたら、ネットにつないで、、、って次は停電ですか。

電気と電話、いろんなものが全部揃ってないとネットに繋げないからね。

最近雨降ったり、風がきつかったりするから、停電多いね。

電気が来たら来たで、電圧高すぎて、電化製品壊れちゃうんだよね。

この前も、それでモデムが火を噴いて壊れちゃったしね。火事になったらどうすんのね。

スイッチ入れる時も、感電しないように気をつけなきゃね。

インドでは毎年多くの人が感電死してるらしい。そーとスイッチを入れながら、

「Om ナマッシヴァーヤ」っとマントラをつぶやいちゃった。

頼れない人間の代わりに神様が頑張ってくれている国、インド。

「不確定要因」「運」「グレース」「カルマの法則」といった言葉の意味を、

日常の中で、否が応でも知らしめてくれる国、インド。。。



1.自分が直接コントロール出来る範囲の要因


2.自分が直接コントロール出来無い範囲の要因


の2つを見極めて、自分で出来る範囲の要因において適切な努力をし、

直接手を打てない範囲の要因については、委ねる態度が必要です。

しかし、自分でコントロール出来ると思っていることでも、

結局は、この複雑に絡み合う様々な要因の上に成り立っているのです。


これらの複雑な要因のネットワークは、物理の法則、生理学の法則、心理学の法則、、、

全体に共通するあらゆる法則によって出来ています。

全てを包括するネットワークは1つとみなせます。

その1つのネットワークを1つの実体として認識してみましょう。

そこには全ての法則、つまり知識、資源、能力、全てがあります。

その1つの実体である「全て」の中に、

私達の「うまくいきますように」という願いを投入する行為が「祈り」です。

目標達成の為に関わる、様々な要因に、「祈り」という行為で働きかけるのです。

先に見たように、祈りは行為であるために、結果を出すからです。




      >> 4.なぜ祈るのか - 自分が幸せになりたいと認識する。>>

<< 2.「祈り」とは「行為」である。ゆえに必ず結果を生む。 <<

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2014年6月8日日曜日

2.「祈り」とは「行為」である。ゆえに必ず結果を生む。

現代人にとってはビックリしてしまうような、パンチの効いたタイトルにさせてもらいましたが、

タイトルの言葉のひとつひとつは熟考に値し、適切に理解されるべきです。


まずは、「行為」について考えましょう。





1.「行為」とは


ここでいう「行為」とは、人間の自由意志を使って選択され、なされた行為を指します。


誰かに「このリンゴの皮むいといてくれる?」と頼まれた時、

A. 言われたとおりにリンゴの皮をむくことも出来るし、

B. 言うことを聞かずに何もしないという行動も選択出来るし、

C. 皮を全部むかずに、うさぎちゃんを作ることも出来ます。

いずれにしても、自由意志を使って選択した事には変りありません。


A. する事が出来る
B. しない事も出来る
C. 別のやり方でする事も出来る

のが、自由意志を使ってする行為です。


自由意志とは、私達に与えられた特権です。

権利というものは、うまく使ってこそ意味を成します。

金・銀・銅から選択できる権利を与えられているのに、

それをうまく使えず、鉄くずで甘んじているのは、あまりインテリジェントとは言えません。


快楽の欲求に駆り立てられて、自分勝手に生きている人達は、

それが自由を謳歌する方法だと信じています。

しかし、その人達は欲望の虜になっているので、

選択の権利は、動物的欲望にさえぎられていて、

人間としての自由意志はうまく使えていません。


与えられた選択肢を的確に把握し、その中から、

自分と共存している人間や動物達、社会全体、世界全体への影響を考え、

全ての生き物への最大の幸福を考えた上で

自分の行動を選択するには、自由意志を使う必要があります。


高尚な人、聖人と呼ばれる人とはつまり、

この自由意志が最大限に使えている人のことなのです。


2.「行為」は結果を生む


当たり前のことですが、何か行為をしたら、結果が生まれます。

手を叩けば、音が生まれます。

どんな些細な行動でも、些細ながらも結果が生まれます。

逆に言うと、結果が期待出来るから、行為をするのです。



3.「行為」の種類


人間のする行為には、数え切れないほど沢山の種類がありますが、

それらは手段によって、3種類に分けることが出来ます。

  1. 体を使ってする行為
  2. 言葉を使ってする行為
  3. 心を使ってする行為

「行為」や「行動」という言葉は、体を使ってするものだけだと考えられ勝ちですが、

言葉や心も、行為をする道具であり、手段です。

上で見た「行為」の定義を振り返りながら検証してみましょう。


言葉を使う時、私達は自由意志を使っています。

そして、発した言葉に対して結果が生まれます。

言葉を使う時は、意志を使って、

A. 言う事も出来る
B. 言わない事も出来る
C. 別の言い方で言う事も出来る

ということを念頭に置いて、

話すか、話さないか、どういう風に話すか、を選択している時、

その人は、自由意志を使っていると言えます。

単に「言いたくて仕方ないから喋っている」場合、

聞かされている人の立場や利益を考えられない場合などは、

その人の自由意志はうまく使われていません。


身体や言葉と同じように、心も行為をする道具、あるいは手段です。

身体や言葉でする行為のように、見えたり聞こえたりするものではないので、

少し分かりにくいかもしれませんが、例を見ながら考えてみましょう。


例えば、何を計画する時、その人は、心で行為をしています。

バラバラであいまいなアイディアが、計画と言う、心でなされた行為によって、

実行可能なはっきりしたアイディアに成った、という結果がもたらされました。

コンピューター・プログラマーは、あまり身体を使ったり言葉を発したりせず、

オフィスに座って数時間考え事をして、いいロジックやフローを考え付いたら、

つらつらと数分かけてプログラムを書く。

心を使ってする行為が、システムの完成とか、お給料といった結果を生んでいます。

暗記する、というのも心でする行為ですね。

これこれを暗記しよう、という意志が必要ですし、

頭を数分から数時間使った後、暗記できたという結果が出ます。


このように、自由意志を使ってする行為には様々なものがあります。


「祈り」もまた、自由意志を使ってする行為です。

願いや欲求を、自由意志を使って、心や身体、言葉を通して表現するのが、

「祈り」という行為なのです。


食べたり働いたりといった他の行為とは違って、

祈りという行為は、しないと生きていけない行為ではありません。

人間は祈らなくても生きていけます。

それなのにあえて祈る事を選択するというのは、

自由意志を使っているということです。


「祈り」とは行為である事、自由選択権を使ってなされる意識的行為である事は、

祈りを理解する上で、はっきりと認識されるべきです。


次に「結果」について考えます。



4.「結果に関わっているのは自分の能力だけでは無い」という客観的な事実


インドを訪れたいので、インドのヴィザを取得しなければならない。

ヴィザセンターから情報を集めて、必要書類を全部揃えて、

今日、無事に全ての書類を送付した。

自分の能力をフルに使って、やる事は全てした。

といって、必ずヴィザが降りるとは限らない。

郵送中に書類が紛失してしまうかもしれない。

ヴィザセンターが忙しくて、ヴィザの給付が渡航に間に合わないかも知れない。

職員の機嫌が悪くて却下されるかも知れない。

先進国日本では、こんな心配するなんて、あまり現実的ではないと思われるかもしれないが、

インドでは、これぐらいの事を考慮しない方が現実的ではない。

「世界はデキる人間だけで回ってるんじゃない」と毎日思い知らされる国、インド。。。


どこかに移動する時、試験を受ける時、事業を興す時、結婚する時、、、

うまく行くかどうなるか、結果を左右する要因は、自分の手の中だけではありません。

風が吹けば桶屋が儲かるように、大小さまざまな要因が複雑に絡み合っています。


自分の直接手の打てる範囲においては、きちんと手を打つ。

しかし、それだけでは望んだ結果は保証されません。

「自分の能力の及ぶ範囲だけで、世界は回っていない。

自分の能力の及ばない事象も、結果を左右している。」

という事実を、まず認めることは、客観性をもたらしてくれます。

こんな簡単な事実を認められないがゆえに、

人々はストレスにまみれたり、重圧に押し潰されたりするのです。

もしうまくいった場合でも「自分が出した結果だ」と驕り高ぶったりするのです。


5.結果を出しているのは誰か?


手を叩けば、音が出るという結果が出ます。

音が出るのか出ないのか、どのような音がでるのか、といった結果は、

手をあわせる速度、力、手の柔らかさ、湿り気、周りの空気の状態、

部屋の壁の材質、大きさ、、、様々な要因が関わっています。

このようにして出た音は、物理の法則に従って出ているのであって、

それを「自分の功績だ」というのは、思考に過ぎません。

どんなシンプルな行動の結果でも、宇宙全体に共通する

様々な法則が作用した結果なのです。

結果を出しているのは、自分独りでも、どこかに座って操作している神様でも天使でもありません。

宇宙全体をひとまとまりとして考えた時、

結果を出しているのは、そのひとまとまりの宇宙全体なのです。

このマクロ・ミクロの宇宙を動かしている能力の全てをひとまとめにして、

全能力と呼ぶことが出来ます。

この宇宙に共通し、あまねく存在している

物理の法則も、化学の法則も、生理学も、心理学も、

突き詰めると、全ては知識です。

この知識全てをひとまとめにして、全知識と呼ぶことが出来ます。


宇宙全体を把握しようとする時、

あなた自身の身体と心の全てを含めるのを忘れないでくださいね。


全能力、全知識を持っている、ひとまとまりの宇宙を、

何と呼びましょうか。


私達の知っている「神様」では物足りません。

男性である父なる神様は、女性でも母でも無いので、

全宇宙でも、全能力でも、全知識でもあり得ません。


インドで教え継がれているヴェーダという聖典は、

この「全て」である存在について知るために、私達に与えられた手段です。

ヴェーダの文化では、この「全て」に対して、

私達が認識できるように、千以上もの名前を与えています。


結果を出している一つの存在、全体という存在に対して呼び名を与えることにより、

私達がその存在を認識に、関わることが出来るのです。

願いを表現するために、その存在に働きかける行為が「祈り」なのです。


6.「祈り」は、自由意志を使ってする「行為」



欲しいのは結果です。

結果を出すために、どこまでが自分の手の打てる範囲なのか、

どこからが自分の手の及ぶ範囲でないのか、はっきり認識する必要があります。

当たり前の事のようですが、一般に私達はこの認識が出来ていません。

だからイライラしたり、落ち込んだり、苦しんだりするのです。

自分の打てる手を打ち尽くした後は、

結果を出す一つの存在、全能力と全知識を持っている一つの存在に

委ねなければなりません。

その「全て」と呼ばれる存在に対して、働きかける行為が「祈り」です。


食べたり、働いたり、歩いたり、という行為は、

もちろん自由意志を使っているのですが、

生きて行く上で、「しない事も出来る」という選択肢がいつでもあるとは言えません。


一方で、祈るという行為は、全くしなくても生きて行けるものです。

それなのにあえて祈る事を選択する時、

祈るという行為は、完全に自由意志によるものと言えます。

自由意志によって成される行動を「行為」と呼びます。

そして、行為は必ず結果を生みます。

それゆえに、祈るという行為も、必ず結果を生むのです。

祈りの結果が、何時、どの様に、どの程度で現れるかは、

私達に知り得るものではありません。

しかし、はっきり言える事は、

「祈りは行為であるゆえに、必ず結果をもたらす」という事です。

手を叩けば、音が出るように。




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1.はじめに 


日本で普通に生きて来て、

「祈る」という言葉を聞いた途端、すぐに出てくるのは、

「宗教的」「信仰的」「迷信的」「非現実的」「他力本願」「無力」「無責任」

といったイメージでしょう。

私もそのようなイメージを持っていました。

日本とアメリカで、SE、PG、ソフトウェア・エンジニアとして働き、

バリバリと実用主義を闊歩してきた私にとって、宗教や祈りといったものは無縁でした。


2006年にインドの聖地、リシケシを一旅行者として訪れ、

そのままインドに居つくようになって以来、

「祈る」という行為は、毎日私の生活の中にあります。


祈りが私を成長させてくれ、

また、私の祈りも成長しました。


「祈り」と共に成長してきた私の理解を、皆さんとシェアしたく、

このブログを始めました。

私の言葉が、自己と世界の理解をより明るくできますように。




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