先日、サットサンガ(インフォーマルなクラス)の時間に、
「Selfish(自分勝手)とSelfless(無私)の違いは何ですか?」
という誰かの質問に、プージャスワミジがやさしく親切に答えてくれました。
さらに、सर्वे भवन्तु सुखिनः (サルヴェー バヴァントゥ スキナハ)という、
毎日の祈りの中で唱えられる、サンスクリット語のマントラと併せて説明してくれたので、
ここで皆さんにシェアしますね。
要約
セルフィッシュ(自分勝手)とか、セルフレス(無私無欲)という言葉は、
ルース(大雑把)な表現ですね。表現は違えども、事実は同じ。
その事実は、「誰だって、自分が幸せになりたい。」 *注1
ブリハダーランニャカ・ウパニシャッドで言われているように、
周りの人を愛している、幸せにしようとしている、というのは、
それによって自分が幸せになりたいだけなんですね。
愛している人の満足が、自分の満足を引き出してくれる。
セルフィッシュ(自分勝手)というのは、
周りの人を犠牲にしてまでも、自分を幸せにしようとすること。
周りの人を思いやる余裕がある時、
その人の「自分」という言葉の意味が、少し大きいんですね。
自分が満足を感じる為に人を愛する -
「自分が無い」という意味の「セルフレス」は有り得ないんですね。
「自分が無い」のではなく、「自分が大きい」のです。
周りが幸せでないと、自分も幸せになれない -
家族や友達、地域、全人類、全ての植物や動物、、、と広げられます。
それが私達の言う「セルフレス」の意味です。
「自分を大きくする」ということは、「周りを思いやる」に集約されます。
सर्वे भवन्तु सुखिनः ।
sarve bhavantu sukhinaḥ |
サルヴェー バヴァントゥ スキナハ
全てのものが幸せになれますように。
सर्वे सन्तु निरामयाः ।
sarve santu nirāmayāḥ |
サルヴェー サントゥ ニラーマヤーハ
全てのものが病から自由でありますように。
सर्वे भद्राणि पश्यन्तु ।
sarve bhadrāṇi paśyantu |
サルヴェー バッドラーニ パッシャントゥ
全てのものが善いことを見ますように。
その為に、善いことが、皆の為に起きますように。
もしくは、
誰でも良い側面と、改善するべき側面を持っています。
良い側面を見ることが出来ますように。
मा कश्चिद् दुःखभाग् भवेत् ॥
mā kaścid duḥkhabhāg bhavet ||
マー カスチッド ドゥッカバーグ バヴェート
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
om̐ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
オーム シャーンティッシャーンティッシャーンティヒ *注2
私がこの「サルヴェー バヴァントゥ ...」という祈りの意味を知った時、
「’皆が幸せ’なんて、そんなの無理じゃんね」
と正直思いました。そして実際、そんなの無理です。
それでも、毎日祈り続けて分かったのは、
祈りというものは、まず自分を変える為にある、ということです。
自分の思考や行動の基準が、「サルヴェー バヴァントゥ ...」になっていくのです。
それは、この祈りが自然と自分を大きくしてくれていた、という結果です。
「周りが幸せじゃないと、自分が幸せになれない」なんて、
自分一人が幸せになるのも大変なのに、周りまでも幸せにするなんて、
幸せになれる確立を数段に低くしているのでは?
という理屈も考えられますね。
自分を満足させてくれるコンディションが、
自分一人分のコンディション(例えば、「自分だけ座れたら満足」)から、
周りの分のコンディション(例えば、「自分が立ってでも、年配の人や妊婦さんが座れたら満足」)にシフト出来るということは、
自分が大きいということです。
その場合、自分の幸せは、自分自身のコンディションに頼っていません。
言い換えると、自分を不幸せにしているコンディションが少なくなっているのです。
今まで自分が座れなかったら不幸せだったけど、
自分が大きくなれば、座れなくても不幸せにはならない。
自分を窮地に追い込む要素が、どんどん力を失せて行くのです。
状況からの心理的依存が、どんどん無くなっていくのです。
*注1
私がリシケシに来て、プージャスワミジの言葉を聞くようになった最初の頃、
「自分が幸せになりたい、と思うことは全く悪い事ではない」という言葉にショックを受けました。
なぜかというと、それまでは、
「自分の幸せを望む=セルフィッシュ」
だという図式で世界を捉えていたからです。
まず最初に、「私は幸せになりたい」というしっかりとした土台を、
自分の中に持つのはとても重要なことです
その為には、「自分の幸せとはなにか」ということを、
きっちり、クリアーに考え抜く過程が必要です。
「自分の幸せ」について、明確な理解があれば、
全てが整然としてきます。
周りに心理的に依存することなく、
周りの幸せを祈り、周りの幸せの為に行動することが出来て、
さらに、自分を大きくしていけるのです。
ブリハダーランニャカ・ウパニシャッドからの引用:
बृहदारण्यकोपनिषत्
आत्मनस्तु कामाय सर्वं प्रियं भवेत् ।
夫や妻、子供、お金、デーヴァ等、全てを愛しむのは、自分の幸せの為である。
*注2
シャーンティヒの発音は注意してくださいね。
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
om̐ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
オーム シャーンティッシャーンティッシャーンティヒ
途中の2回は、連音の決まりで、詰まる音になります。
つまり、 śāntiśśāntiśśāntiḥ と発音されるべきです。
シャーンティが3回繰り返されている理由は、以下の通りです。
思い通りの状況を阻止する障害物には3種類:
1.自分に関すること。例えば病気や落ち着かない気持ち。
2.周りに関すること。例えば家族や近所の人、蚊や動物。
3.人間の力の及ばないこと。例えば天災など。
それらの障害物を鎮める為に、3回「シャーンティ(沈静)」と、
宇宙全体の摂理に従って動き続ける水の中に、
「祈り」という行動で、投石するのです。
全てが滞りなく、思い通りに進みますように。
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「Selfish(自分勝手)とSelfless(無私)の違いは何ですか?」
という誰かの質問に、プージャスワミジがやさしく親切に答えてくれました。
さらに、सर्वे भवन्तु सुखिनः (サルヴェー バヴァントゥ スキナハ)という、
毎日の祈りの中で唱えられる、サンスクリット語のマントラと併せて説明してくれたので、
ここで皆さんにシェアしますね。
要約
セルフィッシュ(自分勝手)とか、セルフレス(無私無欲)という言葉は、
ルース(大雑把)な表現ですね。表現は違えども、事実は同じ。
その事実は、「誰だって、自分が幸せになりたい。」 *注1
ブリハダーランニャカ・ウパニシャッドで言われているように、
周りの人を愛している、幸せにしようとしている、というのは、
それによって自分が幸せになりたいだけなんですね。
愛している人の満足が、自分の満足を引き出してくれる。
セルフィッシュ(自分勝手)というのは、
周りの人を犠牲にしてまでも、自分を幸せにしようとすること。
周りの人を思いやる余裕がある時、
その人の「自分」という言葉の意味が、少し大きいんですね。
自分が満足を感じる為に人を愛する -
「自分が無い」という意味の「セルフレス」は有り得ないんですね。
「自分が無い」のではなく、「自分が大きい」のです。
周りが幸せでないと、自分も幸せになれない -
家族や友達、地域、全人類、全ての植物や動物、、、と広げられます。
それが私達の言う「セルフレス」の意味です。
「自分を大きくする」ということは、「周りを思いやる」に集約されます。
सर्वे भवन्तु सुखिनः ।
サルヴェー バヴァントゥ スキナハ
全てのものが幸せになれますように。
sarve santu nirāmayāḥ |
サルヴェー サントゥ ニラーマヤーハ
全てのものが病から自由でありますように。
सर्वे भद्राणि पश्यन्तु ।
sarve bhadrāṇi paśyantu |
サルヴェー バッドラーニ パッシャントゥ
全てのものが善いことを見ますように。
その為に、善いことが、皆の為に起きますように。
もしくは、
誰でも良い側面と、改善するべき側面を持っています。
良い側面を見ることが出来ますように。
मा कश्चिद् दुःखभाग् भवेत् ॥
mā kaścid duḥkhabhāg bhavet ||
マー カスチッド ドゥッカバーグ バヴェート
物理的、心理的、あらゆる痛みを、誰も感じる事がありませんように。
om̐ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
オーム シャーンティッシャーンティッシャーンティヒ *注2
毎日の祈りの中で、意味を考えながら祈り続けると、
自然と、セルフィッシュ(自分勝手)は消えて行きます。
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― * ― * ― * ―
私がこの「サルヴェー バヴァントゥ ...」という祈りの意味を知った時、
「’皆が幸せ’なんて、そんなの無理じゃんね」
と正直思いました。そして実際、そんなの無理です。
それでも、毎日祈り続けて分かったのは、
祈りというものは、まず自分を変える為にある、ということです。
自分の思考や行動の基準が、「サルヴェー バヴァントゥ ...」になっていくのです。
それは、この祈りが自然と自分を大きくしてくれていた、という結果です。
「周りが幸せじゃないと、自分が幸せになれない」なんて、
自分一人が幸せになるのも大変なのに、周りまでも幸せにするなんて、
幸せになれる確立を数段に低くしているのでは?
という理屈も考えられますね。
自分を満足させてくれるコンディションが、
自分一人分のコンディション(例えば、「自分だけ座れたら満足」)から、
周りの分のコンディション(例えば、「自分が立ってでも、年配の人や妊婦さんが座れたら満足」)にシフト出来るということは、
自分が大きいということです。
その場合、自分の幸せは、自分自身のコンディションに頼っていません。
言い換えると、自分を不幸せにしているコンディションが少なくなっているのです。
今まで自分が座れなかったら不幸せだったけど、
自分が大きくなれば、座れなくても不幸せにはならない。
自分を窮地に追い込む要素が、どんどん力を失せて行くのです。
状況からの心理的依存が、どんどん無くなっていくのです。
*注1
私がリシケシに来て、プージャスワミジの言葉を聞くようになった最初の頃、
「自分が幸せになりたい、と思うことは全く悪い事ではない」という言葉にショックを受けました。
なぜかというと、それまでは、
「自分の幸せを望む=セルフィッシュ」
だという図式で世界を捉えていたからです。
まず最初に、「私は幸せになりたい」というしっかりとした土台を、
自分の中に持つのはとても重要なことです
その為には、「自分の幸せとはなにか」ということを、
きっちり、クリアーに考え抜く過程が必要です。
「自分の幸せ」について、明確な理解があれば、
全てが整然としてきます。
周りに心理的に依存することなく、
周りの幸せを祈り、周りの幸せの為に行動することが出来て、
さらに、自分を大きくしていけるのです。
ブリハダーランニャカ・ウパニシャッドからの引用:
बृहदारण्यकोपनिषत्
आत्मनस्तु कामाय सर्वं प्रियं भवेत् ।
夫や妻、子供、お金、デーヴァ等、全てを愛しむのは、自分の幸せの為である。
*注2
シャーンティヒの発音は注意してくださいね。
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
om̐ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
オーム シャーンティッシャーンティッシャーンティヒ
途中の2回は、連音の決まりで、詰まる音になります。
つまり、 śāntiśśāntiśśāntiḥ と発音されるべきです。
シャーンティが3回繰り返されている理由は、以下の通りです。
思い通りの状況を阻止する障害物には3種類:
1.自分に関すること。例えば病気や落ち着かない気持ち。
2.周りに関すること。例えば家族や近所の人、蚊や動物。
3.人間の力の及ばないこと。例えば天災など。
それらの障害物を鎮める為に、3回「シャーンティ(沈静)」と、
宇宙全体の摂理に従って動き続ける水の中に、
「祈り」という行動で、投石するのです。
全てが滞りなく、思い通りに進みますように。
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